が、共産国家などでは、反対勢力を退ける(または消す)という意味になる。
消すとは、単に左遷やら監獄に入れられるだけではなく、多くの場合、まさに消すことを意味する。
1966年から始まった文化大革命は、まさに粛清の世界であり、過去の文化財破壊、街中の裕福そうな店などの破壊、高学歴者の抹殺、反対勢力の一掃と、恐怖政治の世界に突入していった。
高学歴者は、バカなふりをしないと命が危なくなる。
このあたりは、中共・毛沢東の弟分ともいえる、カンボジア、クメール・ルージュで知られるポル・ポト派が参考になるだろう。
クメール・ルージュに関しては、映画『キリング・フィールド』にも描かれている。
ちなみに、この映画の主役は、後に暗殺された。
さて、今回は文革10年間のうち最初の3ヶ月だけ、主な粛清を新聞記事から見てみよう。
なお、この文革に異論を唱えた日本の新聞社は追放され、中共に右ならえした朝日新聞だけが、中国での活動を許されることになる。
このため、これから掲載する新聞切り抜きは、すべて中共の指示に従った報道をする朝日新聞記事、またはそれの転記らしい日経記事である。
1966年4月末から7月初まで3ヶ月間の、政府や軍、文化人などの粛清、自己批判記事。
(主なもののみ)

全国人民代表大会常務委員会副委員長
1966 04 29

北京市長など
1966 05 30

北京市書記、北京大学校長など
1966 06 04

文化部副部長、副首相など
1966 06 08

国家主席
1966 06 13
国家主席、つまり形式上国のトップを追放できるのは、毛沢東しかいないだろう。
だから、文革の裏には毛沢東がいる。

中共中央宣伝部副部長
1966 07 02

中共中央宣伝部長兼副首相兼文化相
1966 07 10
これで、最初の主な粛清・追放が終わる。
文化大革命とは、実は反対派の粛清をいうのが朝日新聞の見方だ。
というのは、同年8月。
ある程度、トップ層の整理が終わっ後に、こんな記事がある。

文化大革命達成
1966 08 02
いやいや、達成どころか、これはスタートに過ぎなかった。
この後10年。
粛清と暴動、あるいはクーデターの日々となっていく。
あまりに目まぐるしい動きだ。