道は遠い。
トルコ語音(意味)→(予測変化音)→日本語
ichi(内、中身、心)→内、家
idaare(アラビア語由来:管理)→委ねる
ihne(針、尖ったもの)→稲
ikraam(アラビア語由来:サービス、値引き)→いくら(値段をきく)
ilahi(アラビア語由来:神)→偉い
illet(口語:イライラさせるもの)→イラ・イラ、イラ(つく)
ilmek(緩く結ぶ)→(方言)いるく=緩く
injir(ペルシア語由来:イチジク)→イチジク
ip(方言:糸)→糸
ip ujyu(糸口)→糸口
iri(巨大な)→(日本王名の一部)入
is(すす、煤煙)→すす
iskel(イタリア語由来:ハシケ、桟橋)→h'iske→ハシケ
ishuli(刺繍)→s-ishul→刺繍
it(犬)→犬
★語源の大家は、日本語“去ぬ”からイヌになったなどという、落語レベルの説を立てている。古代において、抽象語から身近な具象語を導くなどというのは、私には考えられない。その先生頭大丈夫?となる。
エジプト語やらトルコ語に限定しないが、古代からあった言葉の変化音と考える方が自然であり、日本語語源を日本語動詞から導く見方には?をたくさん付けたい。
また、古代には例えばイとウィ、エとウェは明確に違い、それらの混同はあり得ないなどと大真面目で述べたりしている学者もいらっしゃる。
これだから頭でっかちの先生は困る。
だったら、江戸っ子はヒマワリをシマワリと言うはずがないし、“食べられる”を“食べれる”、“見られる”を“見れる”などと誤った文法で話す日本人はいるはずがないということになる。
が、こうした文法の誤りを認めていなかったりするのが、日本語語源学の大家の現状である。 だったら、方言はどう考えるの?
また繰り返すが、一方でネズミは“盗み”がなまって生まれた言葉だなどという、落語レベル以下の語源を堂々と書いたりする学者もいるのだ。
先に述べたが、抽象語から身近な動物名、具象語を導きだすのは、あまりに現代的な考えであり幼稚だ。
素人の私が見てさえ嘆かわしい。だから、そんな学者が、このだじゃれレベルの語源を笑うとしたら、それは天に向かって唾を吐くに大差ない。
itibal(考慮、配慮)→いたわる
iye(持ち主)→家
iyi(良い)→いい
iz(多国語共通:我々は~である、過去の流れ)→出雲、伊勢
★“我々は~である”は、ヘブライの神YHWHヤハウェの意味にほぼ同じだろう。
izlemek(いずれ)→いずれ
★だじゃれ、偶然と言われればそれまでだが、偶然にしてはあまりに多いと思いませんか?
