
私と隕石のつながりはかなり深い。
それは子どもの頃見た、しし座流星群によるものかも知れないし、また天体の事象に関しては、運のいいことに非常に稀な経験をしていることにもよる。
とにかく私は夜空が好きだった。
それは古い家に飾ってあった、親父の描いた絵の影響もあるだろう。
親父の絵はこの絵を含めて2枚しか知らないが、普段は黙ってばかりでなんら趣味のない親父だが、絵が上手いことを知っている。
さて、隕石の話に戻ろう。
流れ星の類いは数知れず見ているが、私の基準で火球と呼ばれるに値するもの、天文誌レベルだと火球扱いになるものは、それぞれ1回見ている。
これに関しては過去にも記事にしたが、あと少し詳しく書いてみよう。
前者の火球は、私の人生で最も感動したもののベスト5入りするほどの天体ショウだった。
それは1966年の夏か秋のことだったと思う(6月の記憶はあるが、定かではない)。
当時、田舎の母屋は改築中で、家族はあまや(田舎で農機具などを置く小屋)を改造した家に住んでいた。
あまやに風呂はないから、庭に作った仮風呂に入って、あまやに帰ろうとした矢先だ。
左手東南の方向30度くらいの高度に、光が見えた。と思う間もなく、それは満月くらいの大きさに変わり、赤、緑と色を変えてながら一瞬、満月の光以上に明るくなった。
それは、それまで見たどんな花火より美しく、また感動的だった。
私はすぐに家族に伝え、また翌日は学校でその様子を話す。
当時は優等生だった私が、初めて先生から注意を受け、また初めて私が疑問を持つ経験をする。
先生曰く。
言っていい嘘と悪い噂があると。
これは私にとって非常にショックであるから、今でもよく覚えている。
事実を嘘とされることがあるのだと。
が、それは翌日、別の感情を生み出した。
宇都宮気象台が、火球をとらえたニュースが新聞に載ったからだ。
また、山奥に住む老婆が、光るお化けを目にして腰が立たなくなったという話が伝わったからだ。
その日の帰り。
例の先生は私に言った。
疑ってごめんなさい、と。
今考えると、あの先生は偉かったなあと思う。
小学生の私に頭を下げたのだから。
2つ目は、天文雑誌やテレビでも大々的に取り上げられた。
1976年か77年のことだ。
が、この天文雑誌のいう火球は、先に述べたものとは比較できないくらいかわいいものだった。
友人宅に麻雀をしに行こうと下宿を出たとたん、耳に異常を感じ、空に少し光る筋が見えた。
あの耳なりはなんだったのだろう。
衝撃波なら、光よりかなり遅れて感じるはずだ。
しかし、その時は耳の奥に異常を感じて空を見上げた記憶がある。
その話を興奮気味に麻雀仲間に話した。
が、やはり最初は半信半疑。酒を飲み過ぎたと思われた。
が、そのうち地元テレビでニュースとなり、すごいものを見たな、となった。
余談だが、先の火球の後、子ども隕石捜索隊が結成され、私は友人から100グラムをはるかに超える隕鉄と思われる石をもらっている。
磁石に付くので、不思議だなあと思いながら、よく遊んでいた。
今でも田舎の物置小屋に、それは眠っているはずである。
今ならすぐお宝鑑定に出すか、天文台あたりに問い合わせている。
しかし、どこにあるのやら。
一度、じっくり田舎の物置小屋を見させてもらおうかとも考えている。
こうした火球は比較的よくあるようだ。
ただし、大半は人のいないか少ない海やら砂漠、僻地、極地のため、私達が知らないだけのようだ。
隕石ではないが、ハレーが地球に近づいたときに、人家の少ない海辺で双眼鏡を覗いていた私は、某警察国家の警備員から事情聴取されたり、アルプスに近い山奥では、ホテルから日本人スパイと勘違いされたこともある。