神話・伝説の類には、現代の感覚ではよく理解できないものが出てくる。
不定期にはなるが、今日からそんな不可解な描写を見ていきたい。
初回の今日は、まず旧約である。
旧約はダジャレの嵐で、ヘブライ語で読むと楽しい発見が盛りだくさんという気がする。
が、それに気付くにはある程度の知識がないといけない。
残念ながら私にその知識はなく、かつて旧約写本を読んだことがあるが、数行に1時間はかかってしまう。
ということで、数ページ読んで諦めた。
だから、これから述べる旧約の話はヘブライ語の写本ではなく、残念ながら日本語訳されたものを参考とした。
ただし、訳者は知る人ぞ知る、ユダヤ教信者ではなくキリスト教信者の犬養道子氏である(旧約に関して、オリエント歴史の専門家でもある三笠宮殿下とも対談している)。
(新潮社『旧約聖書物語』増補版1977年発行)
この書物は、キリスト教のもとになったユダヤ教のあらましを知るには、私のような宗教音痴にも非常に分かりやすい解説があり、私は時々読み返したりしている。
新約は読んだことがないのでなんとも言えないが、旧約には実に人間的生臭い描写があり、好きな話である。
さて、この旧約の中には不可解な記述が多々ある。
何かで読んだが、モーゼの後を継いだヨシュアが、敵対する住民は女・子どもを問わず全滅(1人の娼婦を除く)させた記述は、多くのキリスト教牧師や宣教師たちが、その説明に苦慮すると読んだ記憶がある。
しかし、私が最も不可解なのはそこではない。
イスラエルの語源にもなった、ヤコブ、後の名をイスラ・エル(神と闘う者)が家督を継ぐ話だ。
簡単に説明すると、次男のヤコブは兄エサウから長子権を奪うために、次男を愛する母親と結託して、目が悪くなった父親を騙して長子権をついでしまう。
父親はエサウを愛し長子権を兄エサウに渡したはずなのに、実は次男のヤコブに渡してしまったと分かって悲しむが、もう手遅れ(神に長子権を渡す相手の誓いをしてしまい、やり直しはきかない)だ。
さて、この話は何を意味するのだろうか。
旧約ではよこしまな行為をした者は必ず罰(死)を受けることになっているが、このヤコブにはなんらお咎めがない。
つまり、この騙しは正当なものだということだろう。
この感覚が私には不可解なのだ。
確かにヤコブはその昔、エサウにひと口の赤豆を分けてやる代わりに長子権を要求し、エサウは空腹から「ああ、くれてやる」くらいは言ったようだ。
が、この約束を根拠に、親を騙して長子権を得ることが正当化されるのだろうか?
私には、分からない。