
とある仏師の方の記事に、馬頭観音の話が出てきた。
そこで私は、エセ風俗研究者に化けて、馬頭についてのインターネットには出ていない妖しいうんちくを垂れてみた。
馬頭と言われてまず思い出すのは、馬頭星雲という方が多いでしょう。
あるいは、仏教やヒンドゥー教に詳しい方なら、馬頭観音でしょうか。
が、今回の馬頭とは、北関東にあった町の名前です。
平成の大合併で今はなくなってしまいましたが、この町付近は日本の歴史にも大きく関わりを持つ地域であるとともに、日本の文化にも影響を与えていた場所でした。
馬頭は北関東、那須連山を臨む八溝山地の麓にあった町です。
この付近は隣の小川町や湯津上村と合わせて、古代から文化が花咲いた地域でした。
湯津上村には、日本三大古碑のひとつである傘石と呼ばれる石碑があります。

そこには日本一美しいとも言われる下侍塚古墳もあります。

この下侍塚古墳だけでなく、一帯には多数の古墳があり、小川町あたりを関東の小奈良とか小京都などと形容されたりもしているようです。
珍しいのが、馬頭の『唐の御所』と呼ばれる洞。

伝説によれば、平将門ゆかりの子が生まれた場所らしく、ほこらとしては珍しく国指定史跡になっていたりします。
この界隈には多数の横穴があり、古くから人間が住んでいたことをうかがわせます。
馬頭は、奈良大仏にも大きく関与します。
日本で初めて金が発見されたのがこのあたりらしく、奈良大仏にはここの金が使われたようです。
時代は下って江戸初期。
水戸黄門は漫遊記にあるように、日本各地を訪ね歩いてはいません。
が、ここ馬頭には足しげく通っています。
先に述べた、下侍塚古墳を研究、整備したのも黄門ならば、村人が橋代わりに使っていた石が、非常に珍しい古い石碑であることを発見したのも黄門でした。
また、この近くに住むひねじいさんと高天原やヤマタノオロチ論議を丁丁発止したのも、このあたりのことです。
天下の副将軍(当時はそんな呼ばれ方はしていなかったろう。後世の作り話だ)とやりあったこのじいさん。なんとなく親しみが湧く。あるいは母方のご先祖様かいな、と妄想は広がる。
ところで、松尾芭蕉もこの地には深い繋がりがある。

一部に忍者説があるほど早歩きで『奥の細道』を駆け足行脚した芭蕉だが、なぜかこの地付近に半月も滞在している。
これにはいくつかの理由が考えられる。
ひとつは元来スケベじじいの芭蕉が、ひどく気に入った子『かえで』がいたこと。
また、気の置けない弟子である桃雪、翠桃兄弟の歓待を受けたこと。
さらにこれは私の妄想だろうが、水戸黄門との密会のため。
その理由は、伊達藩などの情報収集要請である。
と、最後は妄想じじいに戻ってしまった。
なお、馬頭観音もこの地に関係しているが、おそらく金の採掘に関与した渡来人に由来しているのだろう。
ヒンドゥー教における馬頭観音は、最高神ヴィシュヌ神の化身であり、破壊の神でもある。
と同時に、私には大陸や半島、あるいは天竺あたりからの技術者の顔が去来する。
馬頭には、珍しい女型道祖神もあるようだ。
それはかなり巨大なようである。
ただし、風紀を乱すとして、かの副将軍様が周りに竹やら雑木を植えてしまったらしい。
馬頭は、スサノヲにも関与するなんとも興味深い名前だ。
今は小さな神社しか残っていないが、延喜式にも載る健武山神社(ヤマトタケル由来の神社で、大和朝廷の戦略基地?)もある。
なお、馬頭の地名は、ここにある馬頭観音から黄門が名付けたという話もある。
が、私は金山発見のはるか古代からあったと考えている。
馬頭観音は、金山発掘者である渡来人に関与していると考えるからだ。

