字の如くなのである。
これは、私の言語学の師匠たる、とあるブロガーさんが部屋を出られることへの、せめてものはなむけ。
在耐は、在態とも有怠とも書く?
私の場合は、最後のやつのミトコンドリアをしっかり受け継いでいる。
あしはらしこを。
私は好きな存在だ。
瀬無、葉無はその厳しい環境から自然は敵であり、征服する対象だった。
また、その環境ゆえに母音基調のまどろっこしい伝達媒体は邪魔であった。
子音には鋭角さがある。
端的に物事を伝えるには、心理的にも有効だろう。
瀬無、葉無の環境は息の仕方、水の摂り方が生命を左右する場合もある。
だから彼らは息遣い、言葉に重きを置く。
素人が勝手に呼蘭を唱えてはならぬ。
みだりに矢破家の名を言ってはならぬ。
それは、その発音から生きることにも繋がっていく。
もちろん、小麦と酵母の共同作業の産物を摂ることを禁ずる掟は、かの地で生きるための知恵である。
かつて、あれほど三角山を築いて世界の頂点に立っていた菜居の民が砂に埋もれてしまったのは、湿潤だった気候が変化したにも拘らず、その夢見る水の生活を抜け出せなかったのも、ひとつの大きな要因だろう。
しかし残念だ。
史上最大の図書館が、十字の前に滅んでしまったことは。
あの図書館が生きていたなら、我々は今見えない放射線の恐怖にさらされていなかったかも知れない。
と、去りゆく師匠よ。
そして、新たに現れた師匠よ。
こんな眉唾論をはなむけの言葉としたしまする。
しかし、スラリとした美しい脚ですなあ。
あしはらしこをの末裔より。