そんな中で妖しくも微かな光が見えた。
それにすがりたい気持ちは分かる。それを信じたい気持ちも分からないではない。ただし、その類いの光は結局は自分の中にあることには、なかなか気付かないし、気付けない。
既成の社会から少しばかりはみ出している。それが好ましく見えてしまうことがある。いや、たとえ多少の疑問が湧いていようとも、自分の中に不安を感じていることを自覚していてさえも、そんな自分を自分に向かって罵倒しなだめる。
いや、間違っていないのだと。疑念は自分が至らないからだと。
その葛藤、自分の疑念を振り払わんと、時に攻撃的になり、自分の疑念と似たり寄ったりの意見に暴言を吐く。
が、やがて気付くときが来る。
そうしたことだけでは、自分を納得させられはしないのだと。
自分が見えないのではない。
見えはじめてきているから、直視したくないだけなのだろう。
これは辛い。
自分との闘いが、一番疲れるからだ。
だからまた、妖しく光るものに目をやり忘れさせよう、自分に考ることを止めさせようとする。
だから、辛いのだ。
隠そう、隠そうとしている自分の思いを見ることが。
昨夜の月は美しかった。
光は、言葉を発する者だけにあるわけではない。
平成24年神無月
ノストラダメッス、二日酔い気味にてkiss。
