ある記事を読んで | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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海外に住むある芸術家兼小説家兼哲学者兼もろもろさんが、奇妙な日本語のカタカナについて書かれていた。

こうしたカタカナ日本語には、私もときに奇妙さを感じてしまうが、今日はあえてタブーかも知れない言葉について考えてみよう。

だから、この記事は削除されてしまう可能性もある。

まずその代表は部落なる言葉だ。

北関東の田舎に育ち、“おらほの部落じゃよう”なんて当たり前に使っていた私には、大学に入るまでその言葉の何がいけないのかさっぱり知らなかった。

田舎では一般名詞であり、間違っても差別用語ではなかった。
しかしこれはどうも差別用語らしい。少なくともマスコミ、出版界ではそうだろう。

部落という言葉は、私の田舎では集落とかいった意味合いであり、何某村の中で人家が集まっている地域を表すのに用いた。
同じ村でも、例えば山あいの山本という集落に住む人が、沢近くの滝元という集落に住んでいる人に、“おらほの部落じゃよう……”と言ったならば、それは山本という集落のあたりでは、という意味になる。


関西などではかなり意味合いが違っている場合があったとは聞いているが、北関東の、少なくとも私の田舎では何も知らない、何も差別意識のない言葉に、特別な意味合いを持たせてしまったのは、一体誰なのだろうか。



実は、つい最近、今私の住んでいる千葉でも、老人たちの会話に、自然に部落という言葉を使っているのを耳にした。

ここで私は、少なからぬショックを受けることになる。
というのは、少年時代の私なら、その言葉は空気となり消えて、あるいは聞こえない類の言葉だった。

が、私の耳には、多少の摩擦音を伴って入ってきたからだ。

これは恐ろしいことなのだ。 私自身が催眠術にかかってしまっている。
言い換えれば、自分自身がパブロフの犬になっていたと自覚したからだ。

こうした、ある意味教育は、若い頃に植え付けられたものほど深いところに根付くだろう。


例えば、現在の日本では、シナという言葉は悪い言葉、あるいは差別的な言葉ととらえるむきがある。

シナとは一種の地名であり、けして差別的な言葉ではない。むしろ、中国なる言葉の方がはるかに差別的ニュアンスを含んでいるのだが、マスコミはじめこれには触れない。なぜなら、マスコミは中国や韓国と不平等契約を交わしているからだ。


もしシナなる言葉がいけないのなら、なぜ中国はフランスに抗議をしないのだろうか。
なぜ、イギリスやアメリカなどに苦情を言わないのか?


そうしたあたりを考えるべきだろう。



現在の大多数の日本人は、現在の中国という国は、何千年の歴史がある国だという偏り教育を受け、しっかりその見方が定着しているやに感じる。

が、現在の中国なる国の歴史は、まだ1世紀にも満たない。


もし、日本語のシナが差別用語ならば、Chinaは中国を否定する、より悪い言葉じゃないの?

なーんて思ったのでした。



ある検査結果を待ちながら記す。





追記

日本を代表するキリスト教学者である犬養道子さんも、部落という言葉に関しては、あえて使用している作品(旧約聖書物語)がある。

自国の言葉でさえ、他国の顔を見なくてはいけない?差別的?な言葉はダメ?



じゃあ、東洋鬼って差別用語じゃないの?


中国という名前の持つ意味って、知ってる?