★和親屯弟子・合酋国の桜 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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二十歳になった頃だったろうか。もうとうの昔の話だからはっきりは覚えていない。確か元服した数年後のことで、深川遊びに熱が入っていた頃だった気がする。


銀船が来たというので、握り飯の2つ3つ持って浦賀に出かけた。

きゃつらは鯨を甲板でさばきながら、皮の脂身だけ切り取って、肉は海に捨てていた。
なんと殺生なことだ。
海や山の魚にしろ獣にしろ、捕ったならすべて食べてやり、その恵みに感謝するのが殺生をした者の魚や獣たちへのせめてもの償いである。

が、きゃつらは鯨の皮脂を取ると、なんらためらいもなく肉を海に放り投げてしまう。命を奪われた鯨が哀れである。

我が邦では、鯨塚を作りその恵みに感謝をしたりする。が、きゃつらは、そのようなことは考えもしないだろう。


数年後、我が邦でも銀船を造り、きゃつらの国に行くこととなった。

林間丸と名付けられたその船は、亀葉目波大王の統治する葉輪居井という島を経由してきゃつらの国、つまり合酋国に渡ったのだった。


久しぶりに地に足をつけた街は、炉巣庵世留守という。なんでも、きゃつらの言葉で、不要天使なる意味らしい。なんと不届きな名前であることか。
一攫千金を夢見た輩が作った街だとも聞いた。
近くには、三富蘭志津子なる、女房の名前をつけたる街もあるという。
けったいなことだ。

この後我々は、煙を吐く馬車に乗って、果てしなく続く砂の大地を渡ること2日。

裸素平衛粕なる博徒の住む街に着いた。
博打ですっからかんになり、褌さえなくなることからつけたれた名前に違いあるまい。


それから7日。
背丈ほど草ばかりが生える草原を、ただひたすら火馬車に揺られていく。
草原にはずいぶん髭の伸びた牛やら、地面に穴を掘る栗鼠がいたるところで見られた。






日の本を出て3月半。
我々はやっと合酋国の都、和親屯弟子なる街に着いたのだった。

たぶん、和親屯政経塾に通っていた弟子たちが作った街だからだろう。

都というから、さぞや人だかりが凄まじかろうと思いきや、千住あたりと大差ない片田舎である。

隅田川に似た川が流れていて、そのほとりにずいぶんと質素なきゃつらの白い城がある。

この街の名前は、譲治なる武将の名前から取ったということだ。
この地では姓名は我が邦とは逆に、名の後に姓がくる。
さすれば、この武将は我が国ならば、和親屯譲治と呼ぶべきであろう。




この都の隅田川に似たる川辺があまりに貧相なので、我々は日の本より持参した桜の苗木を植えたのである。


その桜が、今年で100歳を迎えるという。


我もまた、その桜を見たいが、土の中からでは難しかろう。

我が国を友とする名前の武将である和親屯譲治ならば、空の上から満開の桜狩りができるのやも知れぬ。

かの国では、魂が空に昇るそうであるから。




ガッツ厘太郎、春分に記す
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