私には、 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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育てられたと思われる場所が、4つか5つある。

1つ目は、生物的に育ったところ。つまり、田舎だ。
私は5つか6つの時に田舎を出ることを決意し、小学1年生の頃に、弟に家を継いでもらうことを頼んでいる。そして、そうなった。
今考えると、いろんな意味で一番豊かな場所だった気もする。



2番目は仙台だ。
ここで私は生涯の友、先輩を得た。
歴史に残る学校一の落ちこぼれである私を除いて、みな大方幸せに暮らしているようだ。 かつて飲み歩いた先輩は、国立大学の副学長やら名誉教授になっているし、年1、2回飲む仲間も、それなりの会社の社長やら役員をしている。
アホ爺の私は、今では新入社員に似たり寄ったりだが、不思議と仲間と飲んでいるときはまったく卑屈さは感じない。
というか、私がバカだからそうした感情に乏しいのだろう。まあ、そうした能力が不足しているのだろうな。



3番目はシンガポール。
抑制された学生時代を抜け出し、初めて自分の好きな道を歩んだ場所だ。一時は本気で永住を考えた。
まあ、おそーくあだ花を咲かせ、幻の青春を育ててくれた場所。



忘れてならないのが上海。
何があっても生きるぞ、という精神力を育ててくれた街。


あの時代、1年生き延びた私は、当時の常務から長期駐在を頼まれたが、常務、専務の前で、こんな色のない街はごめんなすって、と蹴飛ばしたアホである。

しかし、一生のうちであの1年(香港や日本に行ったりだったから、実質滞在は半年強)は、一番長い1年だった。 結局、香港、マカオでも顔のきく先輩が駐在になったが、“島ちゃん、よく1人で生きたな”と言われた。

今では想像できまいが、とにかく蕎麦つゆをすするだけで涙するような世界だった。まっ、尾行する公安を煙に巻いたり、開封して下手な糊付けをした手紙を見たり楽しみもあったが。



最後はフランス。

小さな村に住んでいた私は、ホテルオーナーやらあちらの社長からは家族同様に扱われ、西洋人の中身を少しばかり覗かせていただいた。

周り数十キロメートル、日本人はおそらくいなかった。

ここで私は日本の豊かさと貧しさを知った気がする。また、よくお邪魔した日本料理屋と呼ばれているカンボジア料理屋では、難民の意味を初めて理解した。

かの国あたりで難民になれるのは、とんでもない人たちなのだと。そのマダムは私と同い年くらいだったが、フランス語はもちろん、英国、ドイツ語、タイ語、もちろんクメール語もできた。父親は知事クラスだった。 ここのおばちゃん、つまりマダムの母親に褒められたことは、私の宝でもある。



ところで、私には勝手に決めたオヤジが5人いる。



このあたりの話は、また別の機会に。



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