
南京路を下り、黄浦江公園を左に折れてすぐ、その橋は見えてくる。
かつて、『犬と中国人は渡るべからず』の標識があった、悪名高い橋である。
黄浦江は黒く濁り、底はおろか50センチメートルの先さえ見えず、岸には正反対に真っ白な細かい泡が見えた。
その橋を歩いて渡りきり、旧日本人疎開へ足を伸ばそうとした時だった。
「スミマセン。ニホンジンノ カタデスカ?」
消して流暢とは言えない日本語が飛んできた。
大学生くらいだろうか。かなりこざっぱりした服装の、しかしズボンと靴がいかにも中国らしいなりをした青年が左側に並んでいた。
その隣には、ガールフレンドらしい女もいる。
男が何やらささやくと、彼女はにこりと笑みを投げてきた。
私は返事をする代わりに、軽く頷いた。
と、女はまた、柳眉を動かした。
「ワタシ ニホン ダイスキ デス。 スマップ スゴク イイデス」
男がまた口を開いた。
私はスマップというグループのことはよく知らないが、中国でも熱狂的なファンがいて、コンサートの折りはダフ屋がぼろ儲けをしたことは知っていた。
「大学生なの?」
「ハイ、フットンダイガク デ ニホンゴ マナンデマス 」
「ほう、素晴らしい学校で学んでいる。優秀ですね」
「イイエ ニホンノ コウネンダイガク ニハ カナイマセン」
青年は知らない大学の名前を言った。
私は軽く笑み、タバコに火を付けた。
ここには市内禁煙法は無い。
「君も吸う?」
青年の口元が少し広がった。
「ニホン ノ タバコ ウマイ デス。 ソレニ トチュウ ヒ キエマセン」
青年はうまそうに、マイルドセブンを吸い込んだ。
隣の女が何やら囁くと、男は少し口調を荒げて何か言った。
青白い女の顔に紅が差し、桃の実になった。
「スミマセン スコシ ニホンゴ オシエテクダサイ。 オチャ イカガ デスカ?」
(中略)
「リュウーバイ ユワン(600元)? 」
青年の顔が赤くなった。
「トィ(そうだ)」
「ウェイ シェンマ!(なんでだ!)」
青年とウェイターがやりあっている。
「どうしました?」
「ココ ヒドイ オチャ イッパイ ニヒャクゲン。ワタシ イッカゲツ バイトダイ デス」
「あーっ、それは高い、高過ぎだ!」
私は鼻の穴を広げ、目を目一杯開いてみせた。
隣の桃の実は、また硬い梨の実になっていた。
★★★
ははははっ。今日も上手くいったな。
見たかい。あのアホ日本人の驚いた顔。気分良かったぜ。
また、明日も客引き頼むぜ。
任しとけ。
ワンがいれば、スケベ日本人はひょこひょこついてくるさ。
そうよ。あたしのバイト代も、あと少しもらわなくっちゃね。
青年と少女、ウェイターは上海卑酒をうまそうに煽っている。
★★★★
やはり噂は本当だったようだ。
私は本社に打電した。
明日のスクープ記事となるだろう。
いや、無理か。
今の報道システムでは。
抜け駆け記事を出すには、まず麻雀に勝たなくてはいけないし。