
ライオンたちと闘った戦士たちが、かつてここにいたのだ。
赤茶けたコロシアムの感慨を引き摺りながら、昼下がりの街に戻った。
急勾配にも拘らず、隙間なく並べられた石畳の道は所々浅い窪みがあり、その上を歩いてきた人の歴史を感じさせる。
美術館にでも行ってみるか。
もう、マティスともお別れだ。日本のような鉄柵もガラス張りでもない絵画たち。
もう、二度と会うことはないだろう。
まだ2時前だというのに、黄昏色の空気が流れる。
顔を上げれば、白い恋人たちが舞ったアルプスの山々が、悠然と街を見下ろしているのが分かる。
頭の中には、クロード・チアリが流れていた。
ファミレミファドシ~、ミレドレミシラ~……。
タバコに火を付け、しばし山々を漠然と眺めていた。
長い間ありがとう。
明後日の昼には、ヤシの木の下でシンハービールでも飲んでいるだろうか。
ほのかなヤマユリに似た匂いが、鼻の粘膜を刺激した。
いつのまにか、絵本の中から飛び出してきたハイジが、ちょこんと脇にいる。
エプロンのような白い服が、妙に清純さを引き出す。
眩しいような、かゆいような思持ちで、軽く首をそちらに向けた。
まだ、二十歳前ではなかろうか。
この地方の人たちは、西洋人の中にあって、どこか日本人に似た匂いがする。
小柄なうえ、胸だってペチャパイが多いのだ。
だいたいにして、この国の人たちは農民であり、ファッションやら香水に関与する人たちは、ごくごく一握り。
昼飯だって、ちゃんと作って会社に持ってくる。
外食などというのは、クリスマスと誕生日くらいなものなのだ。
彼らの最大のニュースは、金融不安でもなければ、地球温暖化でも、エコロジーでもない。
今年は何頭の羊が生まれ、何本のヤマモモ酒を作れるかである。
だから、日本のように、全国紙などというものはまず目にしない。
県単位、いや町単位の新聞が、大きな情報源だ。
田舎町を歩いていると、ああ、あんたが載ってる新聞持ってるよ、とか気軽に声をかけてくる。
逆に言えば、ちょっとエッチな映画館などに行く時には、結構気を遣う。
翌日に、昨日どこそこで見かけたぜ。お前さんも好きだなあ、なんて言われてしまうからだ。
女が、いや少女が目を大きく開けて、口を軽く突き出して首を少し曲げた。
ボン・ジュール、マドモアゼェ~ゥ。
サバ?
タバコの煙を吐きながら、今の自分はどう写っているのかな、などと考えながら声をかけた。
と、意外な英語が返ってきたではないか。
Do you want to sleep ?
はあ?
おい、おい。
そりゃ、直接的表現過ぎやしないかい。いや、sleepという表現は、少しニュアンスが違うが。
まあ、慣れない英語だからしゃあないか。
私は、あえてタバコにむせてみせた。
しかし、いくら客引きにしてもげんなりする。
だいたい、かような純そうに見えるお嬢さんが使う言葉じゃない。
ユリの香りが、急に苔色になった。
が、若い男の哀れさだろう。
苔色の匂いに反して、薄桃色の光が躍っている。
少女が手を取り、近くのベンチへと招いた。
少女が、エプロンのポケットからエーデルワイスを取り出し……。
そこからの記憶が飛んでいる。
気付くと、私は夕暮れのベンチで寝ていた。
50フランを残して、財布の中身が消えていた。
50フランは、少女の“優しさ”だな。などとそんな時でも、鼻の下の長いバカな日本人だった。
Do you want to sleep ?
あの表現は、間違いではなかった。
彼女の表現は正しいものだったなあ。
つまらぬことに感心している自分が、そこにいた。
★これは小説です。