「ささっ、先生。まずは一献。いやあ、先生のような方におらが村まで来ていただき、光栄の至りです」
………(中略)………
「先生も、長旅・演説でお疲れでございましょう。奥に部屋を取っておりやす。いやあ、こんな田舎ですから、ろくな部屋じゃあござんせんが……」
「……あっ、今夜は滅法冷えますんで湯タンポなんざ用意させていただきあした」
先生と呼ばれた若い男は、ほろ酔い気分で用意された部屋へと向かった。
神無月の青白い十六夜の月が、廊下の影を短くしている。
障子を開けた。
一瞬、甘い香りがしたような気がした。
男はネクタイを外し、タバコに火を付け、大きく吸い込み、ゆっくりと息をはいた。
コホン。
かすかな咳が聞こえたような気がした。
男は奥の襖を開けた。
そこには、二組の布団が並べられ、手前のそれはこんもりと盛り上がっている。
今度ははっきりとヤマユリと沈丁花の混ざったような、甘い香りが鼻を刺激した。
男は、ぶるぶるっと震えた。
たぶん、欄間の隙間から夜風が入ってきたからだろう。
男は、しばらく棒立ちになっていた。
と、急に脱兎の如く部屋を抜け出したのである。
