藤ノ木というのは、自らの幹・枝だけでは生きられません。
何らかの支えがあってからこそ、皆がうなり、言葉をなくすほどのみごとな花をつけます。
こうした藤ノ木が芽を出したのは、およそ1400年ほど前のことです。
もともとは、房総半島の付け根あたり、鹿島神宮とか香取神社あたりから種が飛んできたと言われています。
しかし、この種も実はもっと西にあった奈良、大三輪・物部あたりから吹き飛んできたものだ、と言うのが私の想像です。
まあ、あまり根拠はありませんが、軍事を司る、神事に強く関わるあたりからの推測です。
蹴鞠うんぬんの話が伝わっていますが、これは後世の権力者の元で、歴史とされる小説を書いた男の作り話でしょう。
つまり、それほどの横暴(現代人の感覚では、何が横暴なのか分からない、些細なことで、単なるおふざけの一種にしか見えません。なんかドッチボールの話にも似ています)な奴なのだから、天誅が下ってあたり前という考えです。
しかし、後世の小説家でさえ、歴史から消された大悪人の能力は、絵を塗り替えられぬほどのものであったことが分かります。
ところで、あることを阻止しようとする場合、普通は反対したり無視したりしますね。
が、これは赤ちゃんの仕草です。
中国の小説などを見ても分かると思いますが、褒め殺しという方法もあるのです。
最近の例では、10月に神様が集まる場所の酒屋さんが一の臣になろうとした時に、「竹やんはよか人です。次の親分は、竹やんにしませう」と代々木辺りをスピーカーで囃し立てたりしました。
すっかりしょんぼりしてしまった竹やんに、何らかの手が添えられお囃子が止んだ、という話がありました。
実は、最近、これに似た空気を感じることがあります。
へんな持ち上げ、つまらぬニュースを公開し、最終的には、被害者とされる者や周りを価値なきものとする。
そんな、不穏なものを感じるわけです。
持ち上げるにも、場所場所に、敢えて誤りの、いかにも古めかしい、科学的ではないものをちょっとだけ混ぜて、突っ込み易くします。
ああ、この擁護論は変だなあ。
そう思わせるわけです。
その論の不完全、不備は、結局、表面上擁護しているものへの疑問、否定へと繋がっていきます。
長い間、お上のいうことが正しく、また、それを否定することは生存自体に関わっていた我が国に於いては、なかなか疑問を表に出せない代わりに、内部で疑問を醸成していくという歴史があります。
こうした経験を利用して、反対者たちを自分の中に取り込んでいきます。
さて、藤ノ木の話に戻りましょう。
藤ノ木は、他の木に巻き付いて生きます。
これは外から見ても分かります。
が、その藤ノ木に寄生して生きている虫もいます。
これらの虫は、藤ノ木の幹や根の中に巣くっていますから、普通は外側からは見えません。
と、なーんちゃって爺さんの、分かったような、分からないような、インチキ政治学でした。
ちなみに、生き物である政治は、こんなに単純じゃないでしょうね。