前の記事で私は、博愛という言葉の中にある差別ということを書きました。
これについては、大変言葉足らずであり、また、ある種の慈善(チャリティー)などに関する思いが先走りし、博愛という言葉自体に差別があると解釈して当然の記事を書いてしまいました。
反省しております。
これに関しては、いささか長くなりそうですので、記事へコメントいただいた方には申し訳ありませんが、この記事をもって私の返事にかえさせて下さい。
日本語で博愛とは、人種、宗教などによる差別などをせず、また、慈善など広く、温かいことをする場合に使われていると思います。
はい、この考えは素晴らしく、何ら非難するものでもありません。
また、理論的には、金銭の有無にかかわらず博愛主義を実践できます。
しかし、現実には日本でも篤志家と呼ばれる富裕層が多いでしょう。
まあ、金は天下の回りもの。
当たり前でしょうか。
ところで、こうした博愛という考えに至るには、長い歴史がありました。
かなり昔に、人同士敬意を払いあって生きよう、という考えがありました。
が、アジアやアフリカの人たちは“人”ではありません。
また、キリスト教徒でない方も“人”ではなかったかも知れません。
だから、簡単に売り買いの対象であったり、火炙りにもできたのでしょう。
日本にもいろいろあったでしょうが、とても比較にはならないと感じます。
さて、そのうちに、人種、宗教を越えて、“人”は平等という考えができてきます。
が、あの自ら奴隷解放を訴えたリンカーンでさえ、奴隷がいたといいます。
つまり、まだ奴隷解放とはいえ、それは黒人などが“人”として認識されただけであり、白人とは全く別であったわけです。
つい最近、私が大人になってからでも、いや、今でもこの空気は残っているやも知れません。
アルファベットの10番目くらいにくる文字を何個か重ねた団体ではなくとも、アメリカ南部あたりでは、かなり色濃いものがある、と聞いたことがあります。
また、これは私自身も経験しましたが、西洋の白人とある程度付き合ってみると、大変まれとはいえ、有色人種に対する微妙なニュアンスを感じることがあります。
それは、慈善の中に見え隠れする、一種の優越感に似た感覚です。
また、これは噂の域を出ませんが、慈善団体が人種差別を率先して行う国などを擁護していたり、そんな団体が高い利益を得ていたりする例もあるかも知れません。
日本では、よくチャリティーイベントがあります。
また、日本の海外援助は、異常に高くなっています。
私は、チャリティー自体は大変素晴らしいことだ、と思っています。
が、皆から集めた義援金なり物資は、果たしてそれを与えた人たちが期待しているような人たちに届いているのか、非常に疑問に思っています。
果たして援助物資は、必要な人たちに渡っているのか、途中で何かに化けたりはしていないか、食糧は餓えた人たちに、渡した量の何割くらい、いや、何分、何厘くらい渡っているのか。
このへんが疑問でなりません。
さらに、仮に1割くらいが必要だと考えられる人たちに渡ったとして、それを彼らは本当に使うのか。
例えば、ぜんそくの人にタバコをあげてはいまいか、イスラム教徒に豚肉を与えるようなことをしてはいまいか、と余計な心配をしてしまうのです。
いくらいくらのお金が集まったとか、これだけの物資をどこどこに送ったという話はよく聞きます。
が、それが現地でどのように使われたのかを伝えている記事は、滅多に見ません。
貧しい人たちではなく、貧しくさせている人たちの私腹を肥やすことにならないことを、もっぱら祈るばかりです。
とりとめのない文章になってしまいました。
また、博愛というものとはかなり離れてしまいました。
悪しからず。