夢から覚めて、改めて思うこと | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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先週の、何十年か前ならごく当たり前の、しかし、今は“夢”という言葉に置き換えられてしまったものから覚め、改めて思った。

これからのブツブツは、昨日、あるブロガーさん(Sさん)へのコメントに書いたものとダブる。

が、昨日は電車の中でサッサと書いたコメント。 だから、あまりまとまりがなく、ただ文字を並べただけだった。
今日は、あと少しじっくり考えてみよう。

とはいえ、やっぱり、電車待ちの合間記事ではあるのだが。





“つらい”と感じられることは、まだ健康な証なのだ。まだ、幸せ、幸運なのである。




断崖で、背中に銃を突き付けられて、微笑みを浮かべることは、普通はできない。かと言って、ただわめいても、何ら解決にはならない。
この状況で、いかに生きるか、その凶器から逃れるかを考えられるのは、理論的にはできても、現実には、なかなか難しいことだ。




目の小皺、顔のしみ、そばかすを数えるなら、あなたの猫の、犬の髭の本数でも数えなさい。






子どもの声ならぬ声、見えない涙が見えたなら、あなたも、そして私も泣くだろう。





耳が遠くとも、はるかな声が聞こえることがある。
目を患っていても、形にならないものを見ることができる。
声を発することができなくとも、何かを伝えることはできる。





トップになることは偉いことではない。そうなりえたことに感謝すべきであろう。
一方、ドンケツになることを卑下してはならない。また、そうなったことを呪ってもいけないだろう。






ボヤキ爺の独り言葉でした。