なぜ、マニフェストと言うのか。 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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日本語にはご存知のように、主に4種類の書き言葉があります。

耳で聞くと同じ言葉でも、漢字とひらがなでは違った印象を受けます。

例えば、【優子】と書いた場合と、【ゆうこ】と書いた場合では、相手に対する印象が微妙に違います。

分かりますか。

漢字だと、その文字からイメージされる女性像がまず頭に浮かび、ひらがなだと、その音から受けるイメージが浮かびやすいのです。


実は、マニフェストという言葉も、日本語のこうした特徴を上手く利用したものです。


【公約】という言葉には、日本人特有の漢字マイナーコンプレックスが働き、大変かたい印象とともに、比較的信頼度が高くなります。


一方、カタカナ言葉であるマニフェスト(多分、日本では【公約】と同じ意味と思われますが)には、【公約】という時ほどの重みがありません。
また、これも日本人の悪いところですが、外国人、特に白人には滅法弱いのです。

ですから、アメリカ人なりイギリス人が、多少不合理なことや誤りを言っても、わりと軽く流してしまいます。

タイ語で外国人はファランと言います。これには、触らぬ神にたたりなし、にちかい雰囲気のあるニュアンスがあるように思われます。
同様に、カタカナ言葉で表現されたものには、格好良さと同時に、軽い感じを受けやすいのです。

つまり、公約は破ると面倒ですが、同じ意味でもマニフェストなら、破ってもあまり非難を受けないばかりか、破った本人も、カエルの面に水をかけられた程度にしか感じないのです。






さて、終電爺のお帰りの時間です。


今日、いや明日は、何時間横になれますかなあ。