アランシャク(後にアラスカと呼ばれる)を南に下った人々は、右手に岩だらけの山々(後にフランス人によりロッキー山脈と命名)を見ながら、広大な湖が連なり、天から地へ流れ落ちる大瀑布のある土地に出た。
彼らはここをミシガン(大きな湖)と名付けた。
部族はこのあたりから、四方八方へと広がっていく。
ミシガンの西の広大な平原に生活の場を得た部族は、自らをア・イヌヒットにちなんでア・ユワ(後のアイオワ)と称した。
さらに南下し、アパラチア山脈の東に住んだ部族は彼らをア・パラチア(山々の向こうに住む人々)と呼んだ。
後世になって、これを聞いた西洋人たちが、そこに見える山脈自体の名前と勘違いし、東海岸に連なる山々をアパラチア山脈と名付けてしまう。
カンガルーの名前と同じようないきさつが、アパラチア山脈にもあった。
ア・ユワあたりから流れるミシシッピ(偉大な川)の下流の部族はアーカンソー(下流に住む人々)、さらに南下して草が繁茂する中で暮らす部族はアラバマ(藪を切り開く人々)。
ア・ユワの隣で、やはりア・イヌヒットの後ろがなまった部族はイリノイ(同じ人々)。
内陸の乾燥地帯に暮らし、肌の色が濃くなっていった部族がオクラホマ(赤い人々)、平原に住み鹿を追うようになった部族はケンタッキー(平原)、ア・ユワの西隣、高原地帯で暮らす部族はダゴダ(隣の友)。
さらにずっと南に離れていった部族さえ、テキサス(友人)と名付けたのだった。
これらの友好関係は、祖先と聖霊、星への崇拝という共通したものが、生まれた時からしっかりと体に焼き付けられていたからである。
だから、こうした関係は、多少部族間のいさかいがあったものの、西洋人たちが“開拓”という名の略奪をするまで、自然に育てられ自然に戻る生活を続けてきたのであった。
彼らはア・イヌヒット(生かされているもの)の領分をわきまえて、食料とする獣も木の実も、最低限に留めた。
また、おのが糧を与えてくれた獣への感謝を常に持つ生活をしていたのであった。
が、テキサスからさらに南下した部族は、その北にすむ部族とは大きくことなる歴史を歩むこととなる。
なぜなら、彼らには“黒い神”が海の彼方から現れ、新しい文化が入ってきたからである。
たぶん、つづくだろう。