墜落しても、これは守らねば | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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そうですな。家族とか、友達とか、学生時代の先輩とか……。 


まあ、このへんはありきたりになりますし、少々嘘が混じってしまいそうですから、やめておきましょう。 


ですから、《物》に限定して話を進めますか。 



そうですなあ。 

やっぱり、アレしかありません。


日中が国交を再開したての上海。 

私は若くして駐在員のようなことをしておりました。 

当時の上海は、多分どんなに説明したところで、経験した方ではないと理解できないでしょうね。


とにかく、駐在員自殺率トップと言われていた時代です。 


唯一の楽しみが、ホテルに帰っての青海口卑酒(携帯に対応する漢字なし、正しくは口偏に卑:チンタオピジュ=ビール)。



上海ジャズ発祥の地、和平飯店の地下で、自分のオヤジより年上の名物トランペッターに拍手を送り、ビールのプレゼントなどをする。 
とにかく上海、いや中国最高の歴史と名前があるホテルですから、よくテレビで見るお偉いさんや世界的に名の知られている方を、毎日見られました。 


先輩が心配して日本から送ってくれた荷物は、約2ヶ月後、香港から再度ホテルに戻った時に、ボーイが覚えてくれていて、ちゃんと届けてくれる。 



が、一歩外に出れば、私でさえ記憶にない、はるか昔の世界があり、少し田舎に出れば何百年前の生活があったのです。 




公安の尾行、盗聴は当たり前、封書開封は日常茶飯事。 
外国人である私たちに一般人が手を出したなら、おそらく即決・公開裁判で極刑にさえなりかねない時代でした。 


和平飯店は、あちらの国会議員でも予約なしには入れません。 

が、一度、何を勘違いしたか、日本人人口より多くの人民を束ねていらっしゃるあるお方が、日本人に変装して私の部屋に来たことがありました。 

「日本人になりすましましたが、ヒヤヒヤでしたよ」とそのお方はいたずらっぽく笑いました。 


工場誘致だのなんだのの話になりましたが、本社に帰れば役なしどころか、まだペイペイの新入社員です。 

その後、本社専務(私が勝手に決めた、第4のオヤジ)が上海に来た際耳には入れておきましたが、もちろん専務も「ふーん」で終わり。まあ、当然の話でしょう。 


その後、常務の推薦というか押しで、本当の上海駐在員第1号になるのを、いかにも若かりし島ちゃんらしい理由で専務に泣き付き、憧れのシンガポールへと逃げてしまいました。 


まあ、このへんはあと10年くらいしたら話しましょうか。 





で、上海での通算1年(香港や日本に戻っていた時期を差し引くと、実質約半年)、私の休日の楽しみは、今の東南アジアの露店よりごちゃごちゃした、上海市内の店周りです。 



多少ですが骨董やなどにも興味があり、特に硯に関しては、あるお方から教えてもらったことがありましたから、とにかく硯を中心に店をまわります。 


当時は、外国人の使う紙幣と中国の現地人が使う紙幣は、名前も単位も同じであるにもかかわらず、紙幣そのものが違っていました。 

また、外国人は一般食堂や店で食料(パンなど)や、タバコを買うことはできません。配給券のようなものがあり、それがないと本当は買えないのです。 


が、若い私はそんなものには縛られません。なんにでも“こころ”は通じるんです(ちょっとズル)。 



で、上海駐在から解放される直前、私は何十軒目かでその店にたどり着いたのでした。
 
淮海路(ワイハイルー)にあったその店の鍵のかかったガラスケースにあるそれを見た時の感動は、今なお覚えています。 



硯と言えば、泣く子も黙る端渓。それは古端渓ではないのですが、驚いたのはその眼(め:黒い粘板岩の中にある黄色い円形模様)の数と形。 


外国人専用の店では、5眼程度のものでも、大きなものは、当時の私の月給では買えません。 

いや、それ以上の眼のあるものなど目にしたことがないのです。 

ある人の話では、俳優の米倉さんは6目の硯をお持ちだと自慢されていた、と聞いたことがあります。 




が、そいつは、10、20…。 
後で小さいものまで数えると、40目以上あったのです。
 
それだけではありません。 
松鶴が彫られ、その鶴の目に、松の実に黄色い眼がピッタリ合うよう彫刻してあるではないですか。 


私は心臓が飛び出しそうになるのを抑えて、あまり気乗りしない顔つきで値段を聞いたのです。 




?   ! 


なんと、予想の10分の1以下。 


シンガポールでちょっと豪華な夕飯を食べた程度の値段(とはいえ、中国国家首席の表向き月給よりは少し上)。 


即、買いましたなあ。 







さて、中国を出たのは、日本が梅雨の時期です。 

ピザ更新が必要なくなかったので、上海から日本への直行便で帰りました。 


夜半に飛び立った機は、強烈な前線の中を上に下にあおられ、機体が悲鳴をあげています。 

下手すると天井に頭がぶつかるのではないか、このまま海の中へ落ちてしまうのではないかと思われるほどの揺れ。 


それでも、私はあの硯は国の宝だくらいに感じて、仮に私が、機体が墜落しても、こいつは守らねば、と肌着でくるんだ硯のあるアタッシュケースを、体を丸めて守ったのです。 








成田に着いて、税関係員が私に小声で聞いてきました。 



「何かあったんですか?」

「どうして?」


「皆さん、真っ青な顔で、お化けでも見たような目をしてますから」




確かその時私は、機体が雲の中でジェットコースター状態だったことを話した気がします。 





が、今なら多分こう答えるでしょう。 





「ええ、三途の川岸で遊んていましたから」






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注)
これは古端渓ではなく、新端渓である。眼が裏まである証に、硯裏には大きい眼を残した足が付いている。
当時は、1目1万という言葉があった。

なお、この硯はいろんな意味で怖いので、わがあばら家には置いていない。


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