《ありません》ということにしたい。 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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「あの時頑張っておけばよかったな」と今、思うこと ブログネタ:「あの時頑張っておけばよかったな」と今、思うこと 参加中


若い時ならさておき、今の自分にはそうした思いはタブーです。 

もし、この年になり、本気で「ああ、あの時こうすれば……」と思っていたとしたなら、それはしてはいけないことだ、と思うからです。 


誤解のないように述べておきますが、自分の過去に過ちも罪もなかった、ということではありません。 

むしろ、その正反対です。 

私の人生は、度重なる過ちの繰り返し、重大かも知れない罪の積み重ねの上に成り立っています。 


多分、意識しようがしまいが、また同じことをしてしまうかも知れません。 



ただ、私は今は、 


こう思っています。 

過去を悔いて、未来に繋げるなら、それはそれで価値がある。 


しかし、ただ「ああ、あの時こうすれば…」だけの思いの中に閉じこもり、懐古だけ、自傷するだけなら、それは違うのではないかと。 


単なる後悔は、現在の自分の否定につながります。 

私は、仮に路傍の石で終わったとしても、そうした思いで世を儚くしたくない。 

また、そうした修行も積んできたつもりだ。 


今、こんな状態でもボケ爺していられるのが、何よりの証拠だろう。 


ここ1年の間に、ずいぶん自分と付き合うのが上手くなってきた。 

「まだ、お前さん見込みはあるぜ」なんて、自分をおだてながら、懐古を斜め右上に見つつ、ああ、また、年をとってしまった。 




でも、頭は小5、心は25が大前提の爺ではある。 


以前にも記事にした記憶があるが、この年になると、「いかに生きるか」ではなく、「いかなる思いであちらに逝くか」が重要性を増してくる。 


だから、「あの時、ああすれば」と苦笑することはあったとしても、頭を抱えるようなことはしないし、したくない。 

若くないから、そうしたことにエネルギーを使えるほど、体力も時間もない。 





私よりはるかに若い、しかしながら、私よりある意味で経験も考えも深い、尊敬すべきあるブロガーさんもおっしゃっているが、ある人の生き方、考え方、思いなどを語り継いでいくのが、この世に生を受けた義務だ。 

いや、義務というと堅苦しい。 

まあ、当然そうあるべきものだ。 


また、その方がおっしゃっる通り、それがその人を永遠に生かすことでもある。 


話が飛ぶようで、実はかなり似た内容なのだが、慣習、文化などにも同じことが言える。 


あぜ道にひっそりただずむ野仏に、川原で摘んだ花を生ける。 


これもまた、大切なことだろう。 



コンピュータがなくなったなら、瞬時に生活に支障をきたす現代、未来社会では、ひどく奇異な考え方となっていくであろうが。