
若い時ならさておき、今の自分にはそうした思いはタブーです。
もし、この年になり、本気で「ああ、あの時こうすれば……」と思っていたとしたなら、それはしてはいけないことだ、と思うからです。
誤解のないように述べておきますが、自分の過去に過ちも罪もなかった、ということではありません。
むしろ、その正反対です。
私の人生は、度重なる過ちの繰り返し、重大かも知れない罪の積み重ねの上に成り立っています。
多分、意識しようがしまいが、また同じことをしてしまうかも知れません。
ただ、私は今は、
こう思っています。
過去を悔いて、未来に繋げるなら、それはそれで価値がある。
しかし、ただ「ああ、あの時こうすれば…」だけの思いの中に閉じこもり、懐古だけ、自傷するだけなら、それは違うのではないかと。
単なる後悔は、現在の自分の否定につながります。
私は、仮に路傍の石で終わったとしても、そうした思いで世を儚くしたくない。
また、そうした修行も積んできたつもりだ。
今、こんな状態でもボケ爺していられるのが、何よりの証拠だろう。
ここ1年の間に、ずいぶん自分と付き合うのが上手くなってきた。
「まだ、お前さん見込みはあるぜ」なんて、自分をおだてながら、懐古を斜め右上に見つつ、ああ、また、年をとってしまった。
でも、頭は小5、心は25が大前提の爺ではある。
以前にも記事にした記憶があるが、この年になると、「いかに生きるか」ではなく、「いかなる思いであちらに逝くか」が重要性を増してくる。
だから、「あの時、ああすれば」と苦笑することはあったとしても、頭を抱えるようなことはしないし、したくない。
若くないから、そうしたことにエネルギーを使えるほど、体力も時間もない。
私よりはるかに若い、しかしながら、私よりある意味で経験も考えも深い、尊敬すべきあるブロガーさんもおっしゃっているが、ある人の生き方、考え方、思いなどを語り継いでいくのが、この世に生を受けた義務だ。
いや、義務というと堅苦しい。
まあ、当然そうあるべきものだ。
また、その方がおっしゃっる通り、それがその人を永遠に生かすことでもある。
話が飛ぶようで、実はかなり似た内容なのだが、慣習、文化などにも同じことが言える。
あぜ道にひっそりただずむ野仏に、川原で摘んだ花を生ける。
これもまた、大切なことだろう。
コンピュータがなくなったなら、瞬時に生活に支障をきたす現代、未来社会では、ひどく奇異な考え方となっていくであろうが。