
私がこの話を聞いた時は、耳を疑った。
というのは、日本にはまだ2、30年早い試みだからである。
陪審員制度による裁判を行うには、最低でも次のことがなくてはならない。
1:国民が裁判に慣れており、弁護人などの存在が身近であること。
なぜなら、陪審員となった自分が被告人の生死に関与することを、実感として捉えられないからである。
→残念ながら、日本にその素地まだまだ作られていない。
2:個人主義が発達しており、良心に従って行動できることが当たり前である国民性が根付いていること。
→日本は歴史的、文化的に、そのようなものを排除してきた。まだまだ、全体主義から抜け出しておらず、個人主義と自由主義、利己主義の区別がつかない。
しかし、一方で、これは日本の長所でもあるのだが、時代はそれを否定する方向にある。
3:マスコミが大人であること。また、大衆もマスコミに踊らせられない大人であること。
→日本のマスコミは、江戸時代のかわら版からあまり進歩が見られない。フランスのマスコミのような大人になるには、百年はかかるだろう。
また、大衆もすぐ、マスコミに踊らされ阿波おどりをしてしまう。
が、実はこれも、日本人の短所でもあり長所でもありうるのだが、それに気づかずに、やれ納豆をかき混ぜると痩せるだの、タイの何とかいうフルーツを食べると胸が豊かになるだの、身につけるだけで厄除けになるだのといった、もったいないことに能力を使ってしまっている。
4:陪審員になるために、情報遮断などの法律が曖昧であること。
→アメリカ合衆国の陪審員制度では、陪審員となる者は厳しい情報管理下におかれ、該当事件に関与する情報に接した者は候補からはずされ、また、陪審員である時も、いや一生守秘義務が発生する。
およそ西欧においては神の存在が絶大だから、これもなんとかなるが、日本のように多神教、混合宗教、いや、事実上宗教に縛らないない国においては、この守秘義務を守ることは難しく、また、陪審員にとっても精神的負担が大きい。
5:経済的補償
政府が考えているとはいえ、世界トップレベルの官僚による立案内容が、俗人に納得できるものか、多少不安あり。
と、主な疑問を挙げてみた。
多分、多くの政治家たちも時期早尚と思っているはずである。
では、なぜ、それを主張しないのか?
それを述べるには、字数が足りなく、また、ブログは適切な手段ではないだろう。
はーっ。
えらく真面目に書いてしまいましたなあ。
ちょっと、疲れましたわい。