皆川マス。
この名前を知っていらっしゃる方は、相当な陶芸好きか、地元のごく一部の人だけでしょう。
皆川マスが生まれたのは、明治7年といいますから、田舎では、まだちょんまげ姿が当たり前の時代ですね。
マスさんは、真岡という、今は栃木県に属する八溝山地の山裾に生まれました。
長じて、益子焼きの絵付け職人となります。
若い頃は、相当なスピードで土瓶などの絵付けをしていたようです。
マス婆さんと言えば『ちょっと変わったところのある人』くらいのイメージしかなく、その作品も身近にありましたから、少しばかり絵付けのうまかった婆さんだったのだろう、と思っていました。
そもそも、地元では、ほとんど話題になるような人ではなかったのです。
今、生死を彷徨っている母や、亡くなった祖母などの、いや、地元の人たちの感想は『変人』です。
が、恥ずかしながら、比較的最近、この皆川マスという婆さんが、ただ者ではなかったことを知りました。
また、特異な才能にもかかわらず、なぜに『変人』として扱われていたのかも、だいたいわかってきました。
はたしてどこまでを書いてよいのやらわからないのですが、私の聞いた範囲で、推測も交えて、皆川マスについて述べていきます。
今や益子焼きは、世界的にも有名になり、益子町では各国の芸術家たちが、陶器に限らず腕を競っています。
益子を一躍有名にしたのは、第一回重要無形文化財保持者、つまり最初の人間国宝となった浜田庄司と、その友人であるバーナード・リーチによるものです。
しかし、その浜田庄司やバーナード・リーチを驚かせたのが、皆川マスという婆さんなのです。
実はこの婆さんの作品が、戦前、ベルリンで開かれた第一回国際手工芸博覧会に出品され、特選・ヒットラー賞を受賞していたんです。 (注:今でこそヒットラーは悪人の代名詞的な印象が強いですが、戦前にこの賞をもらう、すごさを考えてください。田舎の婆さんがオバマ大統領に褒められるのとは、てんで比較にならないくらいすごいことです)
また、これは又聞きの又聞きなので、どのへんまで信じてよいのかわからないのですが、昭和天皇が益子に行幸された時、マスさんは陛下に向かって『じいさん、……』呼ばわりしたらしいのです。
戦前なら、極刑になってもおかしくない話ですが、『マスさんなら言いかねない』という雰囲気があるようです。
保守的な田舎の風土からすれば、マスさんは遠ざけられて、当たり前の存在ではあるのですね。
だからでしょうか。亡き祖母などは、マスさんにはあまりいいイメージは持っていなかったような気がします。
せいぜい、笑い話の種くらいでした。
陛下に対し『じいさん』呼ばわりしたのかどうかはさておき、昭和天皇は皆川マスの作品に触れ、感激なされ、自らこのような歌を、お作りなされていらっしゃいます。
さえもなき おうなのゑかく すゑものを 人のめつるも おもしろきかな
皆川マスの作品は、いかにも泥くさい、しかし、だからこそ心にすんなりと入ってくる、優しい線の絵が特徴です。
その優しさは、国際的にも理解されるものだったのでしょう。
マスさんは、私が小学生になる前に亡くなっており、直接お会いしたことはありません。
しかし、その優しい絵付けは、年とともに親しみあるものになってきます。
そうそう、絵で思い出しましたが、『裸の大将』で知られる山下清氏が亡くなる1ヵ月前に、私は1人ぽつねんと座っている彼と、田舎のデパート特設会場(山下清氏の個展)で1対1で対面(もちろん相手は私を知らない。個展会場にはその時、私だけ)したことがあります。
テレビや映画に出てくるような体型ではありませんでした。また、私が見た限り(数秒にらめっこしてしまいました)では『この人は、頭が切れる』という印象を強く持ちました。
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皆様の励ましのお言葉、改めてありがとうございます。
母の看病は、家をついでいる弟夫婦が、実によくやってくれています。
大変ありがたいことです。
私も、また週末には田舎に行く予定ですが、弟夫婦には感謝するのみ。
また、皆様の優しいお心遣いに感謝、感激です。
本当に、ありがとうございます。
コメントが、遅れたり漏れたりする場合があります。
お許しあれ。
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しばらくは、私の田舎や母のことなどを、時間と体力に相談しながら綴っていく予定です。
では。