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Cutting on Action

映画の感想など

もちろんネタバレ全開。
 
ツイッターで、「上映時間がこれほど長いのは、みんな歩くのが遅いからだ」という冗談を目にした。確かに、歩行のスピードが遅い。特に観客の記憶に残っているであろうシーンを一つ挙げるならば、ブレードランナーK/ジョーがデッカードに会いに行くときににじり寄るようにして建物に迫っていくところ……予告でも使われているあの映像の、歩み寄りの遅さ。
 
この歩みの遅さは過去作に通底している。ヴィルヌーヴ作品ではゆっくりと何ものかににじり寄っていく場面が多い。メッセージにしろプリズナーズにしろ複製された男にしろボーダーラインにしろ、これらの作品を注意深く見た人であれば、人が何かにゆっくり迫っていく映像がいつも含まれていることを容易に思い出せるはずだ。あるいは人でなくても、カメラそのものが対象に迫りゆくショットが同じ印象を残すだろう。
 
彼の作品はいつも未知の何ものかに迫っていく。ゆえにヴィルヌーヴ映画は、ミステリーという語り口のスタイルを選び取りがちだ。未知の何ものか――と言うよりわれわれが存在を知らなかっただけの何ものかや何ごとかと言ったほうが正確だろうか――に近づき、それを知ることで、登場人物は本質的に以前の人間ではいられなくなってしまう。もはや世界を以前の世界として認識することはできず、世界との関係性の中で規定される『私』も以前の『私』ではない。
 
越境。一言で言うとそれがヴィルヌーヴ映画の根幹にある。それは簡単に行えるものではなく、世界そのもの、私そのものが変容するような体験である。だから登場人物たちの慎み深い一歩一歩は、時に残酷な後悔をもたらし時に奇跡と崇め奉られるような、境界線の向こう側の景色へとつながっているだろう。
 
例えば『メッセージ』では、その越境はガラスというモチーフで非常に明確に示された。作中で主人公の博士がガラスの向こう側に身を置いたとき、何かが決定的に変容した。
 
ブレードランナー2049でも“ジョー”ことKには変容が訪れる。自身の内面……その出自という未知を探求する過程において。あるキャラクターが『奇跡』という言葉で形容するような出来事、それに匹敵するような物事を彼が目にすることは最後までない。しかし彼はきっとそれを想像している。彼は自分が死んだあとの世界について夢想しているのだ(Does the Replicant Dream of ... What?)。彼は映画後半に至って、自分以後の世界がどうなっていくかを確かに想像しているとしか思えない行動を取るようになる。このような想像力は、映画冒頭で「おまえは奇跡を見たことがない」とほかのレプリカントから言われていたときにはきっと彼の内側に存在していなかった能力だろう(もちろんジョイの存在によって、彼がもともとひとかどの想像力を有していることは映画序盤から観客に伝わるのだが)。
 
想像力こそ、自分と世界、自分と他者の関係を決定するものである。想像力こそ世界との関係の中で規定される『私』を決定するものである。映画の最後でKが彼の想像のうちにまなざす世界は以前のような世界ではなく、だからそこに存在する彼も以前の彼自身ではない。少なくともスキンジョブ以外の何者かとして死んでいったはずだ。
 
『メッセージ』ではガラスを越える瞬間があったと書いたが、本作にもガラスは登場する。世界をいかようにも変容させうる無限の想像力を持った“彼女”。しかしまだ彼女は彼女自身が何者か知らない。彼女が境界を越える瞬間は映画本編では描かれないが、きっとあの後に訪れるのだろう。そして革命によって、劇中では秩序の壁と呼ばれていた境界線が崩壊する……そのときこの映画の世界は、そこでうごめく登場人物たちは、真の越境を迎える。