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Cutting on Action

映画の感想など

これから書く文章は一部の人を怒らせるかもしれない。先に謝っておきたい。というのはこれから批判するようなタイプの人が、この文章を読む可能性も少なくない、どころか、かなり高いからなのだ。でも、けっきょく私とあなたは違う人間なのだし考えることも感性も違う。だからこういうことを言う人間もいるのだなという程度に受け取ってほしい。この話は何度かツイッターに書こうとしたが、人を怒らせるなと思ったので書けなかった。代わりに、もうちょっと冷静な関係が築けそうなブログという媒体を選んだ次第である。
あと、この文章は酒を飲みながら書いているので、まあ、そういうことだ。
 
まず「リア充/非リア」という二分法についてなのだが、映画の話を持ち出すひまもなく、そもそもこの二分法がおかしい。人間をこの雑な尺度で分けるというのがきわめて乱暴だし、痛ましいのは、この物差しで言えば後者を自称するような人のなかに、その暴力性に無意識なままこの概念の枠組みに固執しているような場合がしばしばあるということである。
 
いや、僕だって、どちらかと言えば後者に属するような人間なのだが、しかしそれ以前に僕は僕という単なる一個人である。世の中に勝ち組も負け組もいないように、リア充も非リア充もいなくて、単にそういう基準と無関係に存在している個人の集団がいるだけだ。そういう乱暴な基準と無関係に存在できるというのはどんな個人にとっても認められる権利のはずなのに、なぜ自分からその権利を捨ててしまうのかが僕にはわからない。そのような雑な二分法に自らをやつしてしまわない程度には、僕は僕自身にプライドを持っているつもりだ。
 
で、映画という表現物にこの尺度を持ち込むのが乱暴きわまりない。そういう俗に言うルサンチマン(※あくまで俗語としての、であり本来の正確な語法ではない)に基づいて映画を消費するのは、「泣ける」という形容詞でもって映画を消費するのと変わらない暴力性がある。イーストウッドの戦争映画をwar hero の映画と呼ぶような無自覚な乱暴さ。例えば『桐島、部活やめるってよ』などがそのような形で「消費」されているのを見ると作品が不憫でならない。あそこにおける人物描写は高度に抽象化されてはいるものの、むしろこの世にリア充も非リアも存在しないというような映画のはずだし、作中で描かれている、いわゆる”スクールカースト”上位と呼ばれるような側の人間にまつわる悲哀をも見なければ、当然あの映画のそっくり半分を見落としているということになるだろう。
 
と言うか、そもそも、勝ち組負け組あるいはリア充非リア充と言った、世間が押し付けてくる暴力的な分類で掬いきれない個々人を拾い上げることこそが、映画や小説マンガというような表現全般が担っている役割のはずではないだろうか。
 
しかしこの雑な人間観が、むしろ”後者”寄りの人々にとってなぜ好まれるのだろう? 結論から言えばそれは安心するからである。こういう思考パターンは、ボンクラとか「俺たちの」と言った表現と親和性が高い。僕は「俺たちの」という表現が嫌いである。その「俺たち」のなかに僕は存在しないし、したくもない。ぬるま湯のような連帯感のなかに浸るなら何も映画を選ばなくたって別の方法がある。せっかくスクリーンという装置はどんな観客をも平等に、孤独な一個人に還元する力があるというのに。いや、劇場の暗がりで、スクリーンが自分だけに微笑んだと解釈するのは個人の自由である。なら、あなたは「俺たちの」というような甘い表現を捨て、大いなる傲慢さと独占欲をもって「これは俺の映画だ」と宣言すべきではないだろうか? 少なくとも僕は、「俺たちのための映画」より誰かが信念をもって「俺のための映画」と語っている作品のほうをこそ見たい。
 
ひどい場合には、リア充というかカップルは映画館に来るなというような表現を見かけることがある。僕ももちろんモテたためしのない人間なので「気まずい」という言いかたなら重々理解できる。家族連れや恋人たちと、万年一人で劇場に通うわが身を顧みて辛くなることもあるかもしれない。しかし映画館というのは誰が来ることをも拒まない場所のはずだし、だから僕のような人間も安心して暗がりの片隅に身を潜めることができるのである。ガラガラの映画館と人であふれかえる映画館なら、明らかに、100%後者を歓迎すべきである。心配はいらない。映画なんてろくすっぽ見ていないカップルも、ガキも、頻尿の老人も、一人客も、変な笑い方のおっさんも、やくざも、ことによれば幽霊も、明かりが落ちて映画が始まったらそのすべては孤独な個人の群れに過ぎない(まあ、こんな映画館像は幻想の楽園かもしれないが……)。いや、そもそも、映画館に連れだって来る客を煙たがっておきながら、「お前らには分からないだろうな、これは”俺たち”のための映画だから……」と精神的な徒党を組むという矛盾に気付かないのだろうか?
 
繰り返すが、「A/B」……という枠組みの中でしか発想できないという点においてすでに負けているのだと僕は信じる。そこに身をやつすのは自由だが、そういった安易な、出来合いの言葉で映画を扱ってほしくない。ルサンチマンをため込んだ自分をぬるい連帯感のなかで承認してほしいなら、映画なんて趣味はやめたほうがいい、とさえ思う。映画というのは僕にとって、ほかの誰でもない個人としての自分をただ受け入れてくれる他者なのだ。