イーストウッド映画は、最近ではほとんど当然のように2時間を越える。ちょっとフィルモグラフィをさかのぼるが『バード』のような作品ではサックス奏者チャーリー・パーカーへの敬意が強すぎたためか2時間40分という長尺を誇る。傾向として、実在した人物の伝記を手掛けるときどうしても長くなりがちだという点は否めないだろう。ある人物が実際に経験した、ときに10年単位にわたる生涯の一定期間を描こうとするとき、当然ながら2時間という尺は驚くほど短い。取材を含む事前準備を念入りに行い、モチーフとする対象に敬意を払う監督にとって「切りたくない」ところがたくさん出てくるのは容易に想像できる。もちろん、イーストウッドの熟練した手さばきによってその長尺が「さらりと見られる」ものになっていることは驚嘆すべきことではあるものの。
そこで彼が発表した”Sully”こと『ハドソン川の奇跡』は何より、その100分を切る上映時間の短さでファンを驚かせた。イーストウッド映画がこんなに短かったことはなかった。一見すると彼がこれまでもはや定番のように手掛けてきたのと同じ実録ジャンルだし、どういう心境の変化だろうと思わせる。作品が全編IMAXカメラで撮影されているというのも、80半ばを過ぎる老監督の作品としては目新しいポイントだったから、その都合が関係しているのか? という想像もできた。実際見てみると一切無駄のない引き締まった映画であったし、作品それ自体の「足し引きを必要としない完成度」はその上映時間を何とはなしに納得させるものでもあった。
ここで、『ハドソン川の奇跡』に次いで御大が発表した作品『15時17分、パリ行き』はその短さをさらに更新する94分であった。ここに至ってやはり、前作で抱いた疑問がむくむくと持ち上がってくる。「なぜこの短さなのか?」……新作公開目前にして、前作『ハドソン川の奇跡』とは何だったのかを考えてみたい。次作に対するちょっとした予想のようなものも差し挟みつつ。
まず、イーストウッドはここ最近ずっと実録物を手掛けてきたと言えばそうなのだが、『ハドソン川の奇跡』はそれまでの作品と決定的に異なるところがある。結論から言ってしまうと、まずこの作品は「実在人物が経験した生涯の一定期間」というよりむしろ、極めて限局された短い(一日に満たない)時間のうちに起こった(現代の)事件を扱っている。これは『15時17分、パリ行き』との共通項でもある。イーストウッドは、この時間そのものが主人公だとでも言わんばかりにその208秒をあらゆる角度から反復してみせる。特定の人間が過ごしてきた人生ではなくむしろその限定的な時間、空間に迫ろうとしているのである。経験者ならびに目撃者たちによるあらゆる断片的な視点がたった一回きり起こった「事件」というものの姿をモザイク状に取り巻き、いったん解体する。しかしそれほどまでに無数の視点のなかにあって、いやむしろ溢れすぎた視点のせいで、「本当には何があったのか」ということ――「事実」の姿は杳として掴めない。ゆえに、事実を「検証」する過程が要請される。これはイーストウッド映画がずっと手掛けてきた「実録物」というジャンルそのものに対して打ち返したメタ的な回答としても読み解くことができるだろう。事実とは何なのか。「実際にあった事件」というものの意味。
だからやはり、いかにもイーストウッド映画的なキャラクターである機長をこの映画の主人公と呼んでも間違いではないのだが、同時にこの映画の主人公は、あくまで限局された時間のなかに起こった事件それ自体であり、その事件を傍観するという形において関わった「当事者」――主にはニューヨークの市民たち――であり、それはつまり、我々なのである。傍観者たちのなかにあって、ぎりぎりのところで不時着水に成功してみせたUSエアウェイズ1549便は、さながら現代においてなんとか成立した「物語」を体現する暗喩のようであり、一見するとそっけなくも古典的な英雄譚として見えるこの作品は、現代においてふとしたことでもろくも墜落しバラバラに壊れてしまいそうな「物語」が何とか自壊を免れて成立するところを映し出してみせた映画というふうに受け取ることもできるだろう。
同時期に発表された映画で、実は本作と近い現代的な問題意識を抱えた作品があるとしたら、それはイエジー・スコリモフスキの『イレブン・ミニッツ』だ、と僕は当時思った。空を飛ぶ何か(飛行機?)の姿と、それを見る複数の視点、そして突如暴力的な形をとって訪れるカタストロフ(≒テロ)……類似するモチーフのスイングがこの2作には見受けられる。なお『イレブン・ミニッツ』は11分の時間を複数のモザイク状の視点によって解体し81分に仕立て上げた作品である。2人の老監督の同時代的な共鳴を確認することで、かたや「誰にでも理解できる」と誤解され、かたや「難解だ」と誤解されている2作への理解が深まると思われるのでおすすめしたい。
さて、『ハドソン川の奇跡』はこれまでのイーストウッド映画がそうだったように「過去に刻み付けられたトラウマとの闘い」をモチーフとしている。作品がたどる過程を見ていればそのように描かれているのだが、不思議なのは、サリー機長自身はカタストロフィックな出来事を経験したわけでなくそこからすんでのところで脱却したはずなのである。しかし「事実」の裏にぴったり張り付いたもう一つの現実のように、機長が幻視する、彼自身は体験しなかったはずの悪夢的な惨事。それは当然ニューヨークが体験したテロの面影をまとっている。ニューヨークという街それ自体の記憶として無意識に深く刻みつけられたトラウマ――それは現代という時代を生きる我々観客のトラウマでもある――を乗り越える寓話として本作を読み解くことができる。
新作『15時17分、パリ行き』はまさしく「未然に防がれたテロ」を扱っているという点において、より現代を生きる我々が無意識として共有しているテロのトラウマというテーマに向かって深化していることが想像できる。そして、この作品が映画ファンを驚かせたもう一つのポイント――「実際の当事者たちを主演に迎えている」という点。これは、『ハドソン川の奇跡』のエンドロールに当事者たちの姿が映し出されていたことと併せて理解することができる。あの映像は非映画的ではないかという批判もあったし、その意見には肯けるところもあるものの、あるショッキングな出来事を映画製作の過程を通じて再体験するということは、トラウマを乗り越えるプロセスのひとつと見なせる。つまり我々以上に、実際に事件を経験した当事者たちにとって、映画がトラウマへの癒しそのものとなるのである。イーストウッドはその効果を見つめている。
ゆえに、当事者がふたたび虚構のなかで過去の出来事を再現するという一見してとっぴな試みは、(これはファンの仮説にすぎないが)トラウマに対する癒しというイーストウッド的テーマを突き詰めていった先の結論として発見することができる。87歳になるこの老獪な監督は、作品によって観客をはっと驚かせながらも、なおその作家性を深化させ続ける。その成果――同時代を生きている我々のための映画――をなるべく早く劇場に駆けつけて確認したい。