「外部」から訳もなく襲ってくるモンスター、つまり「外敵」の不条理な暴力と、それに対して諦めず抗う主人公。という風に書くと、いかにもアメリカ的ホラー/サスペンス/スリラーのようである。もちろんその作りは、アンチカタルシスの極北とも言うべき結末によって、皮肉を際立てる役割を果たしている。
『ミスト』では、外部、あるいは外敵はそのものずばり「霧」によって表現されている。これが巧みというほかない。
ミストがなぜ恐ろしいのかを考えるとき、映画ライターの高橋ヨシキ氏が語る「なぜクローバーフィールドが怖くないのか」の理由は参考になる。クローバーフィールドは911以降の娯楽作であることに自覚的なパニック映画だが、CGの都合からか、映画全編は夜の映像によって構成されている。しかし、ツインタワーに飛行機が突っ込んだのは火曜日の真昼であった。平日の昼、という圧倒的な「日常」に闖入した圧倒的な不条理、非日常、その怖さと、「闇」という非日常のなかでのできごと、これは分が悪い勝負である(※)。
ミストにおける霧は、端的に言って不可知な外界の象徴である。こういうものを映像として表現するとき、暗闇のメタファーは頻繁に用いられる。しかし、本作では霧なのだ。それは茫漠とした空間の広がりを印象付けつつ、きちんと日常の延長線上のものとして機能する。
「霧」と「スーパーマーケット」――この極めて日常的な素材によって構成された空間が映画の舞台となる。
霧は不可知な外界の象徴と言ったが、我々の認識する世界は、茫漠と広がる外界に対して極めて限定的な思弁的な範囲に過ぎない。いわば我々にとっての世界は我々が理解・想像できることの総和でしかない。本当の世界の姿とは常に不可知であり、それでいて我々のすぐ横にあり、延々と広がっているのだ。そして日常に浸った我々は、自分が「理解の檻」の囚人であること忘れている。これは「環世界」と呼ばれるものとだいたい一緒だと思ってもらって構わない。個々人の理解の限界、その環世界が外界からいっさいの理屈を超越したモンスター(それは文字通りモンスターかもしれないし通り魔かもしれないし大災害のかたちを取っているかもしれない)に襲われて初めて、自分が狭い空間に閉じ込められていることを知るのである。
言わばガラスの向こうの霧に目を見張りながら、スーパーマーケットに閉じ込められ進退窮まった人々は、この構図の可視化として読むことができる。この檻から一歩でさえ踏み出してみることは、ほとんど死と同義である。そして頼りないガラスはクリーピーな、見るからに親しみを欠いた(いかにも理解不能そうな)虫やモンスターによってたやすく破壊される。
理解不能性。話の通じない教信者であるとか、時や被害者を選ばない無差別な惨事、理性的に最適解だと思われた選択肢がことごとく裏目に出るような運命の不条理――こういう理解不能な、外界から暴力的に襲ってくる闖入者こそが理性に従って生きる人間にとっては最も恐ろしいものなのである。ついでに言えば、「ケチなプライドに固執する、自分より頭が悪い人間」理性的な人間にとってはこういうものが恐怖の対象になりうるということもこの映画は意地悪く描き出す。
前述してきたような解釈の上では、この映画が描き出す「恐怖」は徹頭徹尾(偏って取りざたされすぎな結末まで含め)一貫している。
ホラー映画は基本的に死への恐怖が根源にある、と黒沢清が語っていたが、この映画が描き出す恐怖は死すら内包したもっともっとメタな、恐怖という概念の煮凝りである。この映画の結末は、はっきり言って死よりも恐ろしい。
どれほど目を凝らしても見極めることのできない不可知な領域、この映画の恐怖を一言で言うならばそれはやはり「霧」ということになるだろう。物語の最後で即物的な意味における「霧」が晴れてもこの暗喩としての「霧」はむしろ一層その濃さを深めていき、ついには何も見えなくなってしまう。周囲の雑音が、ただそっけなく 耳に入ってくるのみである。
※1 蛇足ながら、2016年公開の映画「シン・ゴジラ」においては賢くも怪獣は真っ昼間に現れていた。言うまでもなく、311以降の娯楽作として。