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Cutting on Action

映画の感想など

 先に言っておくが、この映画を見る上での僕の姿勢は正直、おかしい。『ブレア・ウィッチ』という作品に対して否定的なことを述べるが、普通の観客にならこの映画は極めておすすめできる一本に過ぎない。
 それでも何かを言わずに済ませられないのは、ホラー映画というどこか呪われたジャンルについて考えるうち頭がおかしくなったからとしか言いようがない。それだけ踏まえて読んでいただきたい。





 アダム・ウィンガード『ブレア・ウィッチ』を観た。本作は1999年の低予算ホラー映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の続編にあたる。あの映画中で失踪した女性の弟が、その消息を探しに友人たちと森の中へ足を踏み入れるという設定である。
 続編としては、よくできている。でき過ぎているぐらいだ。オリジナルの『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』から十数年が流れ、その間に一般人が持ちうるカメラなどのテクノロジーが進歩したことに応じて、きちんと画面に工夫を凝らすことに成功している。背後に隠された事実関係の全貌が見えそうで見えない、不安定な印象を損なわないよう注意しつつ、90分にわたりよく練られた見せ場や展開を語っている。「森」の怖さ、不気味さを見せつける演出力は感心しきりで、全体的にこの続編は上出来である。
 
 しかし、怖くない。
 怖くないという言い方は語弊があるかもしれない。一つのホラーとして十分に観客を怖がらせることはできているのだから。にもかかわらず、何かそこに期待を下回る予定調和的なものを見てしまう。観客は、『ブレア・ウィッチ』という作品が「よくできたホラー」に収まってしまうことを望んでいなかったのかもしれない。期待が高すぎたのか? いやそもそも我々は何に期待していたのだろう。いったい「何」と比較して軽い失望を覚えたのか?
 比較する対象が何であれ、それが映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』でないことだけは確かである。オリジナルに比べたらイマイチだったね、などということはあり得ない。なぜなら『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』が絶望的なまでにかったるいからである。
この時代にしては斬新な表現だったのかもなどと我々はついつい斟酌しつつこの映画を甘やかしながら鑑賞してしまうが、この前年には既に『リング』が公開されている。そんな時代に出てきた映画として、これはあまりにかったるい。たるすぎる。
 見るべきところがないとは言わない。顔を極限まで大写しに写した有名なあのカットなどは、普通の劇映画であれば絶対にあり得ない極めて稚拙なフレーミングの暴力性によって、ただ事ではない、通り一遍の映画を踏み越えた何かを見てしまっているのではないかと観客に錯覚させることに成功した。しかし、それぐらいだろう。見直すとあまりに耐えがたい作品なのは否定できない。

 それでもなお、奇妙な矛盾が成立してしまう。17年もの歳月をかけてよほど才能ある監督によって撮り直されたよくできた続編が、観客に恐怖を与えるという「機能」において、退屈極まりない稚拙なオリジナルを下回るということが、実際に起こってしまうかもしれないのだ。

 オリジナルにおける何の要素が勝因だったのか? その答えはある意味において「稚拙さ」でありうる。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、雑なつなぎ方、行き当たりばったりのような展開、劇映画としてあまりに稚拙なその映像によって、引き替えに、どこか見てはいけないものを見ているような生々しい感覚を勝ち得た作品だった。同時にテレビやネット、書籍を巻き込んだメディアミックス戦略が、劇場でこの映画がかけられていることを一つの事件という領域にまで引き上げたのである。肝心の中身がああいう出来であったとしても、いやむしろああいう手触りだったからこそ(図らずも)錯覚が強まったと言えるのかもしれない。当然いまの我々が「後に残されたフィルム」を見たところでそのような事件性はどこにも映っていやしないのである。
 
『ブレア・ウィッチ』に話を戻そう。まずアダム・ウィンガードが才能ある監督であることは間違いない。その上で批判されるべきところがあるとすれば、それは「怖いもの」の見せ方である。一瞬だけ画面に姿が切り取られ、カメラの酷い手ぶれの中で左右へと掻き消えてしまう何か。この見せ方が繰り返される。モキュメンタリーあるいはPOV的なホラーにおいては当然こう演出されてしかるべきと思われるような手法だが、これを繰り返し見せられているうちに、どこか時代遅れのものと対峙している気分になってくるのだ。

 Jホラー以降、作り手たちは幽霊(=怖い何か)を画面の隅っこの滲みではなく、いかにはっきりした姿として写し撮るかに尽力してきた。顔も含め全身をきちんと見せた上でなお幽霊と思わせるにはどうしたらよいのか。黒沢清の監督作を順に見ていけば、だんだんと幽霊が画面にはっきりありのままの姿で写し撮られていくようになる過程が一目瞭然のはずだ。近作ではほとんど生きた人間と区別がつかない領域にまでたどり着きつつある。
 あるいは、近年のホラー映画の傑作として『イット・フォローズ』を挙げることも出来る。あれにおける幽霊の驚くほどそのままな映し方と、それでいてなお画面に映っているのが明らかに幽霊であると直感させてしまう演出の確かさは観客に衝撃を与えずにはいられない。
 Jホラーに言及したので、その文脈で語っても許されるであろう映画監督を一人挙げるとジェームズ・ワンがいる。彼の映画においても幽霊(怖い何か)はきちんとその姿を映されるし、その切り取り方には毎回創意工夫が凝らされている。
  こういう作品群に至るまで進歩してきたホラー映画史の中において、いまだに徹頭徹尾「見えるか見えないかのギリギリが怖い」という文法から卒業することができない『ブレア・ウィッチ』を見ていると(まさしく『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』から17年の歳月を経て作られた続編にあたるファウンドフッテージホラーという位置づけを考慮して)、どうしても時代遅れなものを見せられているという気がしてしまうのである。とりわけ我々日本の観客は白石晃士監督を知っている。氏のモキュメンタリーないしPOV作品における、「何かを見せてやろう」という意識の強さ。我々は何かを見るために映画を見ているのだという単純な事実を再確認させられるし、それを踏まえた上では「見えそうで見えない」というような手口は――それ自体がダメなわけではないが最後までひたすらそれを続けられたとき――どうしてもかったるく感じられてしまう。
 その撮り方は、ファウンドフッテージものとして教科書的であり丁寧なのかもしれない。しかしそれゆえに、「何かちょっと普通の映画を超えたヤバいものを見ている気がする」という衝撃をすでに現在のわれわれに与えはしない。いつでも適切なものより不適切なものの方が怖いのである。恐怖映画作家たちは常に「よくできた不適切さ」を追い求めて画面上で実験してきた。その過程で『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』などという、倫理を踏み超えてしまっているレベルの不適切さを見せつけるような時代の徒花も生まれた。その上で……我々がいま『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の続編に望んでいたのは教科書的で端正なファウンドフッテージホラーだったのだろうか?
 
  やはり『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』はパンドラの箱だったのか。何人かの脳裏に「かつてすごく怖い映画があった気がする」という記憶だけ残しつつ、実は世界のどこにもそんな映画なんて存在していやしないのに、その呪縛に我々はいまだ憑りつかれている。こういうのを、呪われた映画と呼ぶべきかもしれない。