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Cutting on Action

映画の感想など

 歌うとか喋るとか誰かにものを送るとか詩を書くとか映画を撮るといった行動は全て、表現するという行為の範疇にある。この映画はそういった表現全般についてメタ的に言及した映画として読むこともできる。


 さて、園子温は時間に対して奇妙なこだわりを見せる作家だが、詩にしろ映画にしろ、こういう表現(書かれたもの、撮られたもの)は時制において常に過去に属する。それ自体、過去の亡霊たちからの宅配便と呼んで差し支えない。とりわけ映画や詩といった表現形式において、それが「過去に属するもの」であるという認識はそれじたい作品の一部分であるし、その認識は、虚構の中にあって一握の真実である。


 そしてそのことに気付いたとき、『ひそひそ星』の虚構はやすやすとリアルを飲みこんでしまう。この映画において福島などの被災地の光景がうつしとられたとき、我々は虚構の中に突如現れたリアルに驚くのではなく、“リアル”なはずの光景がやすやすと虚構に包み込まれてしまったことに驚くべきではないだろうか。


 園子温が撮影の対象として被災地を選んだのは、「記憶を風化させない」ため、ではないのでは、と思える。むしろ逆ではないか。彼ははっきりと「風化しかけた記憶に対しての小さな詩を作りたい」と明言している。被災地が、そしてそこに住まう人々が、記憶として、表現として映像に落とし込まれるとき、それは過去の亡霊として現れるしかない。


 現実が記憶になってしまったとき(人は死んでから美化される、などという卑近な例を引き合いに出すまでもなく)、それははじめて表現となり、あえて言えば「美しい」と呼ばれるものになるかもしれない。それは残酷なことかもしれない。しかし表現する人間はその事実から逃げるわけにもいかない。僕はこの映画を支持する。だから『ひそひそ星』は美しい映画だ、と言うことにしよう。表現とは、記憶とは、そういうものでしかありえないのだ。