カウンセリングを受講する目的は、頭がおかしいので専門職の人に話を聴いてもらって正しい方向に軌道修正して誘導してもらうわけではなくて、付き添ってくれている介助者と障害者本人との関係性を介助者と本人が専門職の人に話をして聴いてもらって無理が生じないように共有できて変えられないかを探る目的と啓蒙啓発です。
マスク着用で来院して検温して手指消毒を終えて、初めに医師の診察。
受傷当初は自分の意思で脳で考えたように体に力を入れられない状態から少しずつ回復してくる状況に比例するように状態も少しずつ変わっていきました。
リハビリの成果と好きな事を一つリハビリの課題に設定して意欲的に同じ事を継続した成果が出て、両上肢不全麻痺の状態から離脱して快復できましたが痙性と神経障害性疼痛の影響と視覚障害が重なって、痙性と既存の症状と神経障害性疼痛に邪魔されてしまって簡単な動作でも失敗してしまうし、手は目の代わりに触角という直接物に触れている感覚を使いますから状況判断がくるってしまいます。既存の神経が支配する領域内を虫が這うように何かが動いて移動しているような気持ち悪い不愉快な感覚は、手術する前から継続している物理療法で効果的に改善している傾向が顕著に出ています。
薬を使わないと気圧や気温が急激に変動する場合は症状を強く自覚して感じてしまって何かに真面目に取り組もうという意欲が持てないほど疲弊してしんどいのですが、逆に痛みを含めた複数の違和感を感じなくなっていて消えてしまったんじゃないかと錯覚してしまうほど情報を伝達して伝える線が断線して接触不良を起こしているように感じたり感じなかったりする状態から痺れてしまっていて数時間の間無痛の状態が生まれる日も出てきていますから、あれこれ色々未来を想像して憶測で考えるより「なるようにしかならないさ」というくらいの気持ちで良い方向に転んでも悪い方向に転んでも結果を真面目に分析して分析した後で対処する方向性を決めていく予定です。
医師からは子供の時には開発されて処方されていなかったお薬が処方されているのですから高望みしてしまうのはどうかと思うけど、慢性的に痛みを抱えている人の数が多くて皆さん頑張っておられるのですから少しくらいは期待しても良いのではありませんか?と提案してくださいました。
本人からと解除社からと両方お話を割り込んで打ち切らないで一定の方向にも誘導しないで新味に丁寧に聴いてくださるので好感が持てる先生だなあといつも感じている印象です、薬の処方の確認と次回の診察日の予約を決めてお礼を言って診察室を出ました。
待合席に座ってしばらく待っていると患者さんと名前を呼ばれる同じ人の声が聴こえてきて別室の方に移動して、最初に患者が入室して話をしている間は介助者には待っていてもらいますが、お部屋の椅子と机が置いてある一角まで誘導してもらった後は一回退室してもらって扉を閉めてもらいました。

軽く挨拶してお話を始めました、ながら生活はしんどいけど、不満や愚痴を直接言っても不の感情をぶつけるだけで分かってもらえないし誰かが変わりに癒してくれるわけでもないので決まった必要な事だけ伝えて代わりにやってもらう以外は距離が近すぎると些細な会話がきっかけで無駄な不毛な対立が勃発してしまう恐れがあるので、お互いに距離を取って家庭内ソーシャルディスタンスを実践していた方が楽ですから実践中ですと言いました。
5体満足な健常者と、補ってもらわないと一人前には生きていけない障害者が一つ屋根の下で一緒に暮らしていますが、視覚障碍者は目が不自由なんだから健常者の顔色を常に伺いながら奉仕してもらって生きていかないと生きられないという思考と、自立して補ってもらわないといけない事だけ補ってもらって個人の責任で生きていきたいというもう一つの思考が存在していますが、二つの少し方向性が違ってしまっている思考のどちらも正しいと思います。
生きてきた境遇がそもそも異なっている人同士が持っている思考なんですから一つの定義のように正しい思考は一つだと言い始めると、もう一方の思考を持っている人の方が反発してしまって押し問答を始めたり正面衝突する事故が起こります。
関係性がいつまでも維持できるわけではないのが現実で、事情で新しい関係性に変える必要が出てきてしまった場合は新しい関係性を受け入れて暮らしていかなければなりません。

維持できている間は五体満足な人の一強の思考に引っ張られて動物でも飼うように物を機械的に操作される感覚で頭で考えられるし口を使って会話して伝えるコミュニケーション能力にも何ら問題など無いのに、重度の障害を介助者に都合がいいように利用されて物でも扱うように操作できてしまえる明らかに正しくない関係性が継続できてしまえるのです。
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