聖書における「一神教」に対する再考察 | Subaruのブログ

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これまで行なわれた歴史教育は、
白人ユダヤ・キリスト教勢力中心の歴史観である、
ということが、
様々な角度から明らかになってきました。

そして、
その白人ユダヤ・キリスト教中心史観を世界の人々に植え付ける過程の中で、
多くの人々の中に、
一神教は level の高い宗教で、
多神教は level の低い宗教だというような観念が植え付けられていったのではないかと思います。

古来より、
八百万の神を祀ってきた日本人に対して、
この観念もまた、
自虐史観を形成するのに一役買ったのではないでしょうか。

そこで今回は、
このユダヤ・キリスト教勢力が教典としている、
聖書という本は、一体どういう本で、
その聖書の中で祀られている神様とは、
どういうものだろうか、
ということについて、
再考察を入れてみたいと思います。

まず、
聖書というものの成り立ちについてですが、
この書物は、その昔、
聖書が書かれる以前から、
様々な国や地域に既に存在していた神話を引っ張ってきて、
それをくっつけ合わせて編集したものと言われています。

例えば、聖書の初めには、
「創世記」
という書物が載っていますが、
この創世記の一章では、
神は人間を含めた天地のあらゆるものを創造したんだけれども、
神が創造したものは、
全て善であった、と記述されています。

ところが、同じ創世記の2章では、
神が天地を創造した時点で、
「善悪の木」が存在していたという記述があります。

神が全てのものを創造したんだったら、
この「善悪の木」を創造したのも、
神様でなければなりません。

創世記第一章によれば、
神が創ったものは、
全て善だったと書いてあるのに、
第二章では、
天地創造の段階で、
既に「善悪の木」が存在している。
つまり、創造の段階で、
既に「悪」という概念が存在していた、
ということになります。

あれ?

聖書に書かれている記述は、
このように、最初の部分を読んだだけでも、
つじつまの合わない箇所が幾つも出てきます。

複雑な解釈をせずに単純に考えれば、
この創世記一章と二章は、
それぞれ違う神話から引っ張ってきたと考えるのが自然でしょう。

神話が違えば、出てくる神様も当然違う、
ということになります。

聖書という、同じ本の中に、
のっけから違う神様が出てきているとしたら、
もう最初の時点で、
「一神教」の logic に、
極めて大きな疑問が生じてしまう、
ということになります。

Noah の洪水の話にしても、
ギリシャ神話あたりから引っ張ってきたんじゃないかという話もあります。

また、その他にも、聖書には、
「マラキ書」とか「イザヤ書」とか色々な書物が出てきますが、
これも英語では “Book of Malachi” とか “Book of Isaiah” とか、
それぞれ “Book” という表記がされていて、
もともとは別の書物だったんじゃないか、
と考えることもできるのです。

このように、聖書とは、
著者も年代も違う別々の書物を繋ぎ合わせて編集したものであるようです。
そして、そういった個々の書物の中にも、
他の神話の影響を受けたんじゃないかと思われる話が出てきます。

聖書の記述によれば、
Noah の洪水の話が終わってからしばらくして、
神は Abraham という人物を召命し、
彼の孫であるヤコブという人物が、
神様から Israel という名前を授かり、
このヤコブの子孫が、後に、
選民と言われる Israel 民族になったと言われています。

その、Israel 民族が自分達の御本尊として祀った神、
その神を彼らは、
「Israel の神」と呼ぶようになるのです。

Israel 民族という、
特定の民族によって祀られるようになった
「Israel の神」

それは、読んで字の如く
「民族神」ということになります。

聖書が世界に広まるようになったのは、
1400年位前から、
Europe 諸国が世界侵略を敢行した際、
侵略した土地の人々をキリスト教に強制改宗させるようになってからです。

聖書という本が編纂された当時は、
聖書は、Israel 民族という、
非常に特殊な思考回路を持つ特定の民族のみに適用されていた、
民俗信仰教典にすぎなかったのです。

聖書が世界に広まったことにより、
「世界教典」と呼ばれるようになりました。

しかし、聖書というものの起源を考えた時に、
この言い方は適切ではなく、
正確には、

「世界中に広まった民族教典」

という言い方の方が妥当なのではないかと思います。

そして、「唯一神」というと、
この世界には、神がお一人しかいない。
その、唯一なる神様を祀るのが
「唯一神教」
だと思っている人も多いのではないでしょうか。

正直、私もそう思ってました。

しかし、そうではありません。

以下の聖句をご覧下さい。

「またわたしの建てる家は大きな家です。
われらの神は全ての神々に勝る大いなる神だからです。

ー 歴代志下 2章5節 ー

このような記述は聖書の中には他に色々もあります。

実は、「唯一神教」とは、
他にも神様は沢山いるんだけれども、
Israel 民族は、唯一、
「Israel の神」だけを祀りなさいよ、
という意味だった、ということになります。

沢山神様がいるというんだったら、
概念としては、多神教と変わりません。

しかし、Israel 民族の場合、
民族の統率を計る為に、
新たに一つの神を立て、
その神だけを拝ませることにより、
人民支配を強化しようとしたのではないか、
と考えることができます。

一神教は、
この、一つの神だけを拝ませ、
他の神々を邪神と決めつける、
強引な考え方に繋がります。

その為、邪神を祀る者達を成敗するという名目で、
他民族や他国やに対する侵略を正当化します。

また、支配と権力の象徴ともなるため、
一神教の盛んな地域では、
権力者による、
宗教を使った人民支配が行なわれてきました。

最初に書いたように、
私は、一神教が多神教に勝るという概念は、
一神教侵略支配勢力が多神教国家を侵略し、
支配する為に構築した概念ではないかと思うのです。

日本は昔から、
八百万の神々を祀ってきましたが、
その根底にあるものは、
多様性を認め、異なる思想、価値観にも、
柔軟に対応していく、
という精神、つまり、
「和の心」
を表したものではものではないかと思います。

日本では、
神社とお寺が隣り合わせに立っていても、
争いません。

異なる宗教、思想、信仰が、
渾然一体となって存在する、
いわゆる “Oneness” の世界。

この精神こそが、
世界平和実現の鍵を握っているのではないかとさえ、
私は思ってしまうのです。

それから、日本神話の記述に依れば、
荒くれヤンキーと化した弟スサノオに手を焼いた天照大神が、
天の岩戸に隠れたそうですが、
この時八百万の神々は、
河原に集まって、
天照大神を呼び戻す為の会議を開いたそうです。

この「神々の会議」は、
合議制による議会制民主主義を表しています。

さらに、八百万の神々の中で、
どの神様を祀ってもいいという発想は、
「信教の自由」の精神を表しています。

西洋社会において、
近代史思想と呼ばれていた精神は、
実は、
日本には太古の昔から存在していたのです。

実は西洋社会の方が精神面においては、
遅れていたし、level が低かったのです。

先人達が気付いてきた高い精神性を否定し、
より level の低い欧米文化を受け入れれば、
民族の level は落ち、劣化してしまいます。

この、日本民族の劣化は、
既に実現していませんか?

今なお、日本は雑教教文明だから level が低い、
なんて教育を若い人達に施していたら、
日本はまた、新たに反日勢力を生み増やし続け、
亡国への道を加速してしまうかも知れません。

捏造してまで自国を美化するのも問題ですが、
真実を曲げてまで、自国を卑下する日本の姿勢には、
大いに問題があると思います。

「良いものは良い」と、
先人達から受け継いだ遺産を、
後生の者達に使えていける日本人でありたいものです。