「総序」についての自分なりの再考察 | Subaruのブログ

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原理講論の「総序」には、既存の宗教、特にキリストに対してかなり批判的と言える内容が書いてあり、その限界性についても説かれています。そして「新しい真理」の必要性を説き、その真理が前人未踏の「罪なき地上天国」を実現していくということが書いてあります。


しかし、今やそこに書かれている内容自身が、統一教会(UC)をを追い込む内容になってきたのではないかと思います。


たとえば、ある個所には



「歴史上に現れたすべての哲人、聖賢たちは、人生の行くべき道を見いだすべく、それぞれその時代において、先駆的な開拓の道に立たされたのであるが、彼らが成し遂げた業績はすべて、今日の我々にとってはかえって重荷となってしまっているのである。このことについて我々はもう一度冷静になって考えてみる必要があるのではなかろうか。」




と書いてあります。が、この内容は今の UC に当てはまってしまってないか、我々も冷静になって考えてみるのも時がきたのではないかと思うのです。





さらに続けて見ていきたいと思います。


「哲人の中の誰が我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。聖賢の中の誰が人生と宇宙の根本問題を解決し、我々の歩むべき道を明確に示してくれたであろうか。彼らが提示した主義や思想は、もうしろ我々が解決して歩まなければならない種々様々の懐疑と、数多くの課題とを提示したにすぎなかったのである。そうして、あらゆる宗教は、暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの心霊の行く手を照らしだしていた蘇生の光を、時の流れとともにいつしか失ってしまい、今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しく照らしているにすぎないのである。」



我々の苦悶は最終的に解決されたでしょうか?統一教会もそのあらゆる宗教の一つになってしまってないか、最近の教会の見苦しいさまを見るにつけ、深く考えさせられる内容です。



「すべての人類はみな同じ父母から生まれた子孫であるという教理に従って、それを教え、かつ信じているキリスト教国家の国民たちが、皮膚の色が違うというただそれだけの理由をもって、その兄弟たちと生活を同じくすることができないという現実は、キリストのみ言に対する実践力が失われ、灰色に塗られた墓場のごとく形式化してしまった現下のキリスト教の実情を、そのまま浮き彫りにする代表的な例だということができよう。」


「灰色に塗られた墓場」 - 非常に辛辣な表現でキリスト教のことを言っています。


では、皮膚も言葉も同じ、それどころか同じ父母を持つ実の兄弟たちががお互いをサタン呼ばわりせんばかりの勢いで争い合っているの今の教会の現状を、どう表現したらいいのか、悩むところです。



そしてこの箇所。



「人間の努力をもってしては、いかんともなしえない社会悪が一つある。それは、淫乱の弊害である。キリスト教の教理では、これはすべての罪の中でも最も大きな罪として取り扱われているのであるが、しかし、今日のキリスト教社会が、現代人が陥っていくこの淪落への道を防ぐことができずにいるということは、何よりもまた嘆かわしい実情といわなければなるまい。今日のキリスト教が、そのような世代の激流の中で、混乱し、分裂し、背倫の渦の中に巻きこまれていこうとする数多くの命に対して、手を束ねたまま何らの対策をも立てることができないというこの現実は、いったい何を意味するのであろうか。それは、従来のキリスト教が現代の人類に対する救いの摂理において、いかに無能な立場に立っているかという事実を如実に証明するものと見なければならないのである。」



これって、今日のUCにも当てはまってないでしょうか。特に際限なく起こる「神の真の家庭」の淪落、混乱、分裂は何を意味するのでしょうか。


「無能な立場」って書いてありますが。。


さらに追い打ちをかけるように、こう書いてあります。



「事実、イエス以後二〇〇〇年にわたるキリスト教の歴史の期間を通じて、イエスの十字架の血によって完全に赦罪することができたと自負してきた信徒たちの数は、数えつくせないほど多かった。しかし実際には、罪のない家庭も、罪のない社会も、一度たりとも存在したことはなかったのである。のみならず、先に論じたように、年月がたつに従って、キリストの精神は次第に衰微状態に陥っていくということが事実であるなら、今まで我々が信じてきた十字架の代贖と、完全なる代贖との間に、結果として現れた事実の面で不一致があるというこの矛盾を、一体何によって、またいかに合理的に説明することができようか等々、我々を窮地に追い込む難問題が、数多く横たわっているのである。」



キリスト教では、キリストによって罪が許されると説くのであって、罪が無くなるとは言ってません。故にここでキリスト教の論理矛盾を説くのは無理があると思います。


ただ、ここでは、果敢にキリスト教の救いの限界に踏み込んでいき「統一原理の教えなら、罪のない個人と社会を実現できる」と言いたかったのでしょう。これがある人々にとって異端と言われる所以であり、またある人々によっては革命的と言われる所以だと思います。



しかしこれは、逆に言えば、統一教会の教えを実践して罪のない社会ができなければ、それは間違いなく論理矛盾に陥るということを意味します。


特にUCには歴史上初と言われる「真のアダム」と「真のエバ」によってできた家庭があります。その子女たち家庭を築いた(いわゆる四位基台形成)後でもなおが淪落していくという現状を見れば、教理の内容と、結果として現れた事実の面で不一致があり、我々を窮地に追い込む難問題が、数多く横たわっていることにならないのかと思うのです。


「象徴と比喩によって記録されている数多くの難問題を、かつてイエスご自身が直接話されたように、例えをもってではなく、誰しもが共通に理解できるように「あからさまに」解いてくれるものでなければならない(ヨハネ十六・25)。このような真理であってこそ初めて比喩と象徴によって記されている聖句を、各人各様に解釈することによって起こる教派の分裂の必然性を止揚し、それらを統一することができるのである。」



ちなみに「あからさまに」の英語訳は「plainly」、分かりやすい言葉で、という意味です。


しかし、UCの人たちは「アボジのみ言は基準が高すぎて難しい。何回も読まないと分からない。いや、何回読んでも分からない」とよく言います。  


基準の低ーい者たちにも、分かりやすい言葉で説かれると預言されていたと思うのですが。。



読解が難しい内容であれば、またもそこに解釈の違いが生まれます。


かくして、かつてキリスト教統一を掲げて歩んだ教会が、かなり教派分裂しました。教祖が生きている間にこれだけ分派を生み出した宗教団体もそうはないんじゃないかと思います。


今、教会内ではキリスト教統一、宗教統一という言葉がほとんど聞かれなくなりました。「講論」には再臨の時にそれが起こると言っていましたが。。



一心不乱に突っ走る時も必要でしょう。しかし、上記のような現状を見たとき、重ねて言いますが、もう一度、冷静になって考えてみる必要があるのではないでしょううか。







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