5月17日、先日和歌山地裁で傍聴した「紀州のドンファン不審死事件」の元妻 須藤早貴の詐欺事件の2回目の公判を傍聴してきました。

今日の公判では、被害男性の証人尋問が行われました。大手メディアが報道していない重要な部分を速報動画にまとめましたのでぜひご視聴ください。

※この動画は須藤早貴被告が犯人ではないことを主張するものではありません。また、パパ活や不倫、詐欺行為を肯定するものでもございません。野崎氏と須藤被告を科学的に分析し事件が起こった経緯・心理を解明しつつも一方で司法制度の理不尽・法治国家の根幹を揺るがす危険に警鐘を鳴らすものです。ご了承ください。

 

 

詐欺事件の被害者であるという白髪のやせた男性が法廷に現れた。元銀行員で現在警備会社の仕事をしている。検察の質問で奥さんがいることがわかった。子どもはいない。

 

当時61歳であった被害者は、すすきののキャバクラで18歳の須藤早貴に出会った。2回目店行った時に、学費含めて月15万払う。金の面倒をみるからお店をやめて一緒に暮らそう、と被害者が言い寄った。そのため被害者は自分でマンションを借りてそこに早貴を住まわせた。マンションの契約時には早貴を「孫」と嘘をついて借りたことがわかっている。このような形で早貴の愛人生活は始まった。

その中で被害者は「早貴に嘘を言われお金を出していた」「お金を騙し取られた」と語るが、法廷で明かされたLINEの内容では、早貴から「色々お金の面倒を見てくれていつもありがとう。そんなみやちゃんのことが大好きよ」という感謝の言葉があり、被害者「僕を愛してくれる」早貴「愛してるわ」というやり取りがあったという。

この愛人生活は被害者の奥さんにばれたことで終わりをつげた。「このお金どうしたの」「このお金は何に使ったの」と追及され「若い女の子を応援しようと思って出した」と白状した。奥さんに怒られた後で、早貴に「もう嫁にばれたのでこの関係をやめよう」と話した。早貴は「最後に600万円出してほしい」と言ったが、被害者は「奥さんにばれたから出せない」と断った。

僕の推察では、最後に早貴がお金を要求したのは被害者を試したのではなかっただろうか。「自分か奥さんかどちらか選んでほしい」というのが早貴の本心ではなかったかと僕は考える。

さて、どうしてこれが発覚したか。ここについても検察は説明した。被害者が自発的に被害届を出したのではない。紀州のドンファン不審死事件で聴取した時に警察は彼女の通帳を全部押収した。その時に大きな金額が振り込まれたことがわかり、これはひょっとしてと警察が被害者を尋ねて行った。

「須藤早貴が日本に残って海外留学してないのを分かったのはいつですか」と尋ねられると、被害者は「和歌山の(不審死)事件で刑事がやってきてからで、びっくりした」と答えた。

つまり、被害者が被害意識を持って被害届けを出したわけではなく、警察が事件にしようと持ちかけたのである。こんなこと許せるだろうか。警察が事件を作り出したのだ。紀州のドンファン不審死事件で立ち行かなくなることを前提に事件にさせた。こういうことを平気で検察が説明した。

これについて僕らが周りの人たちと喋っていたら、不思議なことに報道の人たちは僕らと目を合わそうとしなかった。今はSNSとかがありテレビや新聞が全ての時代じゃないので、こうやって動画に撮って発信した。

大事なのはこれが有罪になるかどうかだ。知り合いの弁護士に聞いたところ詐欺として立件するには条件があり「最初から騙してやろうということで近づいた、で騙して取った」ならばこれは詐欺になる。

この事件では、被害者の方から18歳の須藤早貴に言い寄った。これが僕が「この事件は詐欺じゃない」と言っている理由だ。早貴がお金の話をした時も判断は被害者に任せると言っていたのだから騙すつもりではない。何がなんでもということではなく被害者が「ちょっと考えさせてくれ」と言うと「そうね、大きい金額だしね。みやちゃんも大変ね」と言ってその後に被害者から「振り込むから安心して」と伝えると「私は嬉しい。そんなみちゃんが好き」と答えたという。これが詐欺になるのだろうか。

被害者意識でもう許せないということで警察に訴えていたわけではなくて、詐欺の構成要件にも当たってないことを警察と検察が詐欺事件にしたのだ

さらに驚くべきことに、なんと被害者には須藤早貴以外の彼女が複数いた。「愛してる」「体触りたい」「ラブラブしようよ。僕はお金いくらでもあげる」付き合っていた女性たちにこんなことを言っていたようだ。これを弁護士が暴いた。

被害者が女性たちに貢いだお金は、共働きの奥さんと築き上げた共有財産(信託)と自分の親が亡くなって転がり込んできた財産だった。奥さんが親の看護で家を留守にしていた間に「すすきのデビュー」をしたという。

血税を使ってこういう裁判をやっているということに僕は憤りを感じた。