ドキメンタリー風小説‟海流”プロローグ③ 泥水を被って・・ | ドキメンタリ-風小説 海流

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ドキメンタリ-風小説 絶唱
epilogue《エピローグ》
小説それから
第3部 こころ 75歳になった男が感じる天の役事
第2部 共鳴太鼓 未来を背負う若き世代の物語
第1部 やまぶきの花 戦後まもなく生まれた男が生きた昭和、平成、令和の物語。

  

 次男H.KOUZOUさんの話

 私の記憶があるのは兄(HKEN)が学校から帰宅するの待って庭先で空から落ちてくる粉雪を見つめていると自分がズンズン空に登って行く感覚になった保育園に行く前の記憶です。昭和28、9年(1953、4)頃だと思います。午後から降り始めた雪はドンドン積もって近くの竹藪の孟宗竹の枝が撓(たわむ)って弓なりに曲がるほどでした。兄が帰宅する1時間前から祖父は稲ワラでつくった長靴で雪を踏み固めていました。山裾の曲がった小道で、しかも隣の家まで数十メートルもあり小学生の子供にとっては困難な通学道でした。私は兄が帰ってくるのを楽しみに何時も玄関口で待っていました。山陰特有の曇天の空、時折雲の切れ間から陽の光に照らされて、やっと私が発見できるような真冬の光景が今も目の前に浮かんできます。

 やがて田畑に降り積もった雪の表面が朝夕の氷点下の寒さでカチカチに凍結してグランドのような広場になる頃を迎えます。

 谷の隙間に沿って開墾された田圃の傍の曲がった小道を歩くより早く数分早くグランドのような広場を真っすぐ歩いて目的地まで行く事が出来ました。

 3月になると太陽の光線の光が眩しく澄み切った青空の下、清涼な空気を胸一杯に吸い込んだ気持ち良さ。これぞ大自然と一つになった喜びの朝でした。 

 もうすぐ春。一面真っ白な雪に覆われた田圃も雪解けが進み横を流れる小川の澄んだ水量は日に日に増えていきます。

 雪解けの終わった田圃の土のアチラコチラから霞んだような色の小さな雑草の葉が出てきます。その雑草も日に日に緑に変わって「俺も生きているぞ!」と自己主張し始めます。

 父親が田圃の一角を鍬で堀り、細長い溝を造っています。溝に囲まれた土の島が5列出来上がりました。この島の土を細かく砕き、肥料を施し整地します。次に外皮のついた玄米に十分水分を吸わせて土に播種して上に細かく砕いた土を撒いて芽がでるまで日光と水の管理を続けていました。

 その作業に平行して田圃の耕しが始まります。動力の耕運機の無い時代でしたから鍬による人の力と黒い和牛の力でした。和牛に土を耕す道具を引かせての作業です。四角い田圃の四隅はもっぱら人による作業でした。土を荒起こし、さらに細かく砕き、水をいれて2回攪拌し、田圃の土が泥のようになるまでさらに何度も牛に引かせた作業が続きました。

 「お父さんは自分では話さないけれど、シベリアに抑留されて相当無理をさせられたんだろうね」

 母親は親戚の家で夫の様子を聞かれるといつも同じ答えしかしませんでした。

 2日農作業してその後3日間が完全に床に臥せって寝ていました。三月末から始まった春の農作業は過酷な作業で田植えが終わる五月下旬まで続きました。

 

 ある日の午後でした。私は食事をする部屋に続く台所の土間でガシャン、ガシャンと陶器の食器が砕ける音がしたので障子戸をそっと開けて覗いてみました。

 父が収納庫の木戸を開けて食器を膳を両手で持ち上げて土間の石畳みに叩き付けています。父の顔は硬直し怒りが滲み出ていました。

 僕は見た事のない父の静かに怒り狂った姿をみて恐怖に心が切り裂かれるようで、急いでその場から離れて外にでました。ちょうど母親が夕食の準備のため農作業から帰宅して来る時でした。僕は母親を見た安心感で目から涙が零れ出てきました。

 母が母屋に入って暫くしてから、土間を覗いてみると母親が箒で壊れた食器を片付けていました。

 涙を流しながら・・・

 

 しばらくして祖母と母が「シベリアで相当苦労したんだろうから耐えていたんだね」と涙を流して会話をしているのを聞きながら父の怒りの意味が理解できました。

 普段は口数の少ない優しい父でした。

 

 1945年8月6日広島9日長崎に原爆が投下された後、8月15日昭和天皇による玉音放送がありポツダム宣言受託し9月2日降伏文章に調印する。

 

 第二次世界大戦後、朝鮮半島は北緯38度線を境にソ連とアメリカが分割占領し北側にはソ連の支援で北朝鮮が、南側にはアメリカの支援で大韓民国が成立した。

 1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越えて韓国へ侵攻し、戦争が始まる

 

世界平和家庭連合韓鶴子総裁

 「そろそろ夜もふけたから出発しよう」

1949年、秋のある夜更けに祖母と母、そして私の三人は包を二つ

ばかり抱え、家を出ました。安州から三十八度線までは直線距離で200キロはあります。私たちはその遠路を何日も何日もかけて下っていかなければなりませんでした。最初の一歩を踏み出す時から、胸がドキドキしてしかたありませんでした。

 出発してから5、6時間もすると東の空がかすかに明るくなってきました。私たちは少しでも先に進むため、休まずに歩きました。夜は空き家で眠りに就き、朝露を踏みながらまた出発しました。ぼろぼろの靴で、でこぼこした道を行かなければならないので、少し歩くだけで足が痛みました。何より耐え難かったのが空腹です。民家に入り、包みの中の物を渡して、代わりに麦飯を恵んでもらいながら食いつなぎました。苦労に苦労を重ねながらひたすら南に向かって歩き続けたのです。

 北の共産党は人々が簡単に南下できないよう、田畑を掘り返してでこぼこにしていました。田畑を通るたびに足を取られ、夜は寒さにぶるぶる震えながら、ただ星の光だけを頼りに歩きました。ようやく38度線の近くまで来たと喜んだのも束の間、私たちはそこで厳重な警備を敷いていた北の人民軍に捕まってしまいまんした。空き家の納屋に放りこまれると、既にそこには捕まった人が何人もいて、恐怖に震えていました。・・・・(自叙伝 人類の涙をぬぐう 平和の母 韓鶴子著より)

 

 次回につづく