五月の連休も終わった。雨の印象しか残っていなかった。広島市内では恒例のフラワーフェスティバル3(日)、4(月)、5(火)と有ったらしい。5日に遊びに来た友人の子供が「これから最終日に出かける」と言っていたから開催されたらしい。3日は確実に雨だっだ。4日も曇天だったと記憶しているから開催されたかどうか知らなかった。橘京助は1(金)、3(日)、4(月)、6(水)とパートの仕事だった。上司から依頼されたのは施設の13階にある古井戸の木枠を新しい木枠に造り変えてほしいというものだった。
まずは古い井戸枠を取り外して1階に降ろした。その後分解し木材の組み合わせの状態、寸法を測る処からスタートした。近くのホームセンターに材料を購入しに出かけた。最近の物価高で木材の値段も値上がりしていた。『出来るだけ安く』が暗黙の業務命令だった。先月この上司が何を思ったのか電動丸ノコギリを購入した。「これでシッカリ仕事に頑張ってくれよなぁ」と言っていた。
その意味が理解できた。10センチ角の木材を切断するには手挽きノコギリでは骨の折れる作業だった。
分解し木材の組み合わせの状態、寸法を測る処からスタートした。穴あけには京助の義理の祖父が使っていた大工道具のノミ、材木の表面を削る鉋(カンナ)も義父が使っていた道具。どちらも妻の実家から持ち帰ったものだ。今ではホームセンターで電動式の穴あけ機のホルソー、電動式のカンナも2、3万円で買えた。
最初の難題は寸法を木片に書き込み、組み合わせにによって加工する方法、位置、場所を書き入れ、正確に切断しゆく事だった。加工寸法の間違いは許されなかった。作業前後で組み合わせて何度も確認した。
失敗すると時間と材料のロスになってしまう。
確認!確認!何度も確認した。
長らく眠っていた頭脳が回転し始めた。
夜、寝具に入っても脳細胞は動いていた。
生れて小中学校時代まで生活した実家は高台にあった。隣の屋根瓦が川下の谷間の先にみえた。
中学2年の時だった。豪雪で1階の屋根先の垂木が折れて屋根が壊れてしまった。父親はこの屋敷を取り壊して100メートル下った平地に新築の母屋を建て替える事を決断した。翌年の秋の収穫が終わった時期から作業が始まった。
母屋の半分を取り壊した場所に作業所が造られた。製材所から運び込まれた加工前の柱、板などが並べられていた。大工さんが1人で材料を吟味し、柱、床、屋根部分に相応しい木材を選びだし、線引きして一本、一本加工していく様子を眺めた。新しい家が出来る期待感と作業している大工さんの姿に惹かれた。
将来は家の新築の設計師か、好きだった機械関係の仕事に就きたかった。中学3年生秋、最終の進学希望は工業高校にした。
翌年の春の農作業が終った季節、近所の人たちの協力で新居の木製の骨組みが出来上がった。京助が希望の高校に入学試験に失敗した昭和40年、1965年だった。それから内装の作業だった。入居するまでさらに半年くらいの時間が経過した。実際入居できたのは夏が終わった頃だった。京助は入学した高校を中途退学した浪人生だった。
京助は家造りの工程を自分の目で眺めて静かな感動を覚えた。
住宅の完成まで1人の大工さん。土壁の中にある骨組みと壁塗り、風呂釜周りと焚口、浴槽周りのタイル貼りは1人の左官さんと手伝い1名。水道管の設置と配管接続、および基礎工事は近所の工務店。当時は井戸だったので井戸掘の職人さんが8メートル位の竪穴を地下水脈にゆき当たるまでツルハシとスコップで掘り進めた。水揚げポンプは集落の電気店の御主人。この家の長男と京助は同級生だった。まだ白黒テレビが集落でも数軒だった。もちろん電話も商売をしている家以外無かった。
自分の声の届く処に父母がいて、祖父母がいる。それを取り巻くように新築の家造りもできる人達もいた。
全てが日常生活圏内で生きている人々が繋がっているのが理解できた。それぞれが力を振り絞って生き合っていた。
上司に依頼された木工物は昨日9日完成した。
加工した木部にバーナーで劣化防止に表面を焼き炭化させ蓋と腰板の部分に真鍮製の飾りを組み込みんだ。
来週初日11日、上司がどんな顔をするか・・・?
京助は思った。幼少から思春期に生活の一コマ、一コマを手作りの様に生きて世代、時代だった。
思い出の濃さは日常生活圏内で生きている人々に囲まれ育った時代だった。
今振り返れば『感謝する”時間”だった』と
生活した大切さを!
~次回に続く


