3月末から4月2日まで韓国に出かけた。
旧統一教会の解散命令で日曜日の午前中は教会に通っていた習慣も途切れてしまった。かって日本海と瀬戸内海の間にそびえる中国山地のほぼ中央付近で暮らしている頃,教会に通えるのは二カ月に1度だった。12月から3月までは積雪のため冬眠のような田舎暮らしの毎日・・・橘良助が育ったころは中国山脈と言っていたし、教科にも記載されていたのに。何年ころからだろうか?中国山地という記載になったのは
‶解散命令”を素直に受け入れて以降、教会員と顔を合わせる場所が無くなった。110万人の人口、世帯数58万世帯の地方都市で自由に顔を合わせて日常生活の悲喜こもごもを共有する教会施設が無くなった。全国には信者が捧げた土地も有っとた聞いた。
この喪失感、脱力感から抜け出す方法を模索する願いを込めて韓国に出発した。
出発便は空港10時30分、ソウル・インチョン国際空港着12時10分のチェジュ航空だった。
橘良助が始めて韓国に渡ったのは1975年2月だった。今から50年も前だ。飛行機も始めて日本国外に出かけるのも始めてだった。25歳、羽田空港からの出発だった。同じ飛行機には数名の友人も一緒だった。韓国ソウルであった‶国際合同結婚式”に参加するためだった。運航会社の名前も国籍も全く記憶に残っていない。一つだけ記憶が有るのは友人が韓国人のスチュワーデスに自分の婚約者の写真を見せながら喜々として話し込んでいる場面だ。今も記憶に鮮明に残っている。
50年も前の、しかも同乗した友人の姿の記憶が蘇ってきた・・・不思議だった。
インチョン空港に到着して日本各地から集まってきた教会員と一緒にバスに乗り込みインチョンから首都ソウルをぬけ、さらに高速道路を1時間40分ばかりに東に進んでいった。
教会の聖地ともいえる修錬苑に到着した。時刻は3時半過ぎ、気温が日本よりかなり寒いと予想していたが、良助が住んでいる 広島市とほぼ同じだった。
今回のツァーで集まったのは全国から1200人ばかりだった。年齢は20歳前後から様々で良助と同じ昭和20年代生まれの人たちもかなりいた。平日の開催と有って女性が圧倒的に多かった。宿舎で一緒になった男性参加者は僅かに250名ほどだった。
良助の知り合いが2名ほどいて、まだ元気そうだった。
橘良介がツァーに申し込んだのは、統一教会の教義の正確さと精密さを知る事を越えて『実体験的確信』が欲しかった。出発前1カ月以上かけて統一教会の教義を読み返し、教会の歴史を学び直した。忘れていた内容も多々あって調べ直した。だが、一向に開けるなかった。
出発前日まで迷い道に入ったようだった。出発当日の朝だった。
『自分は宗教の世界に踏み入っているんだ』と理解した。哲学で言う『哲理』仏教でいう『仏法』、キリスト教でいう『神学』の細目を研究するために50数年間信仰生活をしていたのでは無かったはずだ。
よく言われる『霊的世界の存在』『死後の世界』『死後の世界が有るとするなら現世の意義づけと意味と関わり』。これを知りたかった。確信として自覚したかった。
一言で言うなら『神霊』
人生歩いて来て76年・・・・
施設の大会場で橘良助は隣に座った男性と知り合った。良助より4歳若かった。
彼は言った
・・・・自分の妻は霊界いる人なんです。
教会員で霊界からのメッセージが判る人がいてその人に私の相対になった人の事を教えてくれるのです。
霊的に開けた教会員の人と会話しているのは私の相対になった人のお孫さんというかたです。
昔、11歳の時、事故で被災された女のお子さんで今生きていらっしゃれば22歳でしょう・・・・
橘良助は今から11年前の事故のニュースは記憶していた。その時亡くなった女の子は『将来は医者になって人々のために生きたい』というニュース記事が有ったのも覚えていた。
彼は霊界にいる妻との生活の様子を教えてくれた。
橘良助は彼と会話しながら強く感じた。
『自分ももう一歩、もう一歩と霊性を開発していけば、新しい世界が開けて行く!』
希望を感じた。
この境地に至るまで76年係った。
小学校入学前、一日中深々と雪の降る日だった。
時刻は午後三時。4畳部屋の柱時計がボンボンボンと時を教えてくれる。
玄関前から離れ屋の軒下に祖父が兄が小学校から帰ってくる道を、長靴でも歩けるように鍬で除雪していた。
良助は山陰の夕方、空から降る雪を眺めていると、自分が空に高く高く上昇していく気分になった。
父も祖父も兄も地上に残し、いつも一緒にいてくれた母の姿も見えなくなって
空へ、空へ、独りぼっちで・・・・
目に一杯涙を溜めながら・・・
~次回に続く