これまでのあらすじ

 創立110周年記念の文化祭で和太鼓クラブが挑戦する演目『イエス・キリスト』天地創造から始まった歴史に神の苦痛と涙を知ったイエス・キリスト。副部長横山優斗から依頼された3部の楽譜作り「イエス磔刑以降の信者の心境を表現する」光永誠は河川敷にあるキリスタン迫害を記した石碑が有る事を思い出した。

 

 

 6月末1学期の期末試験が7月3(月)4(火)5(水)6(木)7日(土)に実施される旨が発表された。その期末試験の前の土曜日は予備校の統一テスト、期末試験の後の日曜日は実用英語技能検定があり、期末試験が終わると夏休みが始まり暑さと共に3年生たちは本格的受験に取り組み始める。

 6月の最終日の30日は金曜日だった。上村佑子は集まった和太鼓クラブのメンバーに言った。

 「今から文化祭の演目『イエス・キリスト』の三場面の演者の発表をします。1部の リーダーは横山優斗さん2部のリーダーは2年生の小川清君3部のリーダーは光永誠  さん。それぞれの部ごとの演者は配った用紙に氏名が書き込まれています。それと別紙に1部、2部、3部の楽譜があります。試験明けから夏休みの期間中の補講や予備校のオンライン講義のある8月10日までの間は勉強とともにこの部室で積極的に練習もしましょう」

 上村佑子は集まった部員の一人一人の顔をみながら「これから文化祭まで3年生も昨年、一昨年とコロナで文化祭が中止になり、本番までの練習や緊張感など未経験な事が多くあります。来週から期末試験です。1年生は来年の進学校の試験科目に合わせたクラス編成のための大切な資料となる試験ですね。また2年生にとっては選択した科目に迷いがないか見直す機会にもなる試験です。私もふくめ3年生にとっては貴重な時間でそれ以降は進路変更も難しい時期になってきます。『部活と受験は大変だね』とよく言われますけど、屈しない心が失われなかったら、部活も受験も相乗効果で更に上昇しようという高揚感が生まれてくると思いますので、皆で力を補いつつ頑張りましょう』と結んだ。

 

 3部のリーダーになった光永誠は配布された用紙の1枚目の演武者の名前と4枚目の自分が作曲した3部の楽譜を見ながら、もう1枚入れてあった学園の年度行事予定表に期末試験の終了後の予定を頭のなかで組みいれていた。

 

 文化祭の5日前の9月27日(水)28日(木)29日(金)30日(土)には2学期の中間試験が組まれてあった。

 これをどう乗り越えるか?、勉学と部活をどう両立するか?目の前に大きな障害物で行く道が塞がれたように思えてきた。光永誠は自分自身の事にプラスして部門リーダーとしての大きな重荷を感じ”逃げるわけにもゆかず、後戻りもできず”、”結論は突破するしかない”と覚悟するしかなかった。

 

 先週のオープンスクールの代休日、途中まで出来上がった楽譜を前にシャープベンシルを手にしても光永誠の頭には何も浮かばなかった。

 夜中だった。

 

 次年の文化祭の演目を何にするか試行錯誤していた冬の季節の部活総会の様子が甦ってきた。

 新入生が入学する前の2月の和太鼓クラブの総会だった。

白石kかづえが「・・・それじゃ“神”にとってイエス・キリストは何なのか?という疑問がでてきますね。イエス・キリストは神を父と呼び。ヨハネから洗礼を受けた時『これは私の愛する子、わたしの心に適う者』という言葉から“神”とイエスは親子という関係。親子という血縁関係で結ばれた土台に心、事情、感情を通わせることができる関係と考えて良いわけですね。聖書を文字どおり解釈すればイエスは男性ですから神は男の子の父親といえるわけですね。息子の誕生から十字架の磔の刑で亡くなるまでを見つめ続けた父親。子供を見つめる親の心を和太鼓で表現する。何となく理解できるようになりました」と言った言葉に続いて

 小川清が『・・イエスの誕生も『神』自身の計らいが有ったとするなら物語として一貫性が出来てくるわけだ。親子か?!・・西洋文化の根底に流れているキリスト教もぐっと身近に感じられるようになってきましたね。そしてイエスが磔の刑に服し最後に言った『父よ、私の霊をみ手にゆだねます』と言葉にした『父よ』の“父”とも連続性ができてイエス・キリストの死後、パウロが弟子たちへ迫害、脅迫を続けている時、ダマスコの近くで天から光をうけパウロの回心が起こる・・・・この"声”の主も同じ父親だといえるわけですね。これ以降、パウロや多くの使徒たちによってキリスト教が世界に広まってゆく・・・・』

 の言葉が生き生きと甦ってきた。

 

 光永誠は本箱から聖書を取り出して使徒行伝のパウロの記述を読み始めた。

 

 さてパウロ(サウロ)は、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。

 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。

 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。

さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。

 そこで主が彼に言われた「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。

 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。

 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。

 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。

 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。

 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。

 サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。(使徒行伝9章1節から21節)

 

エンデンクの1小節を書き終わったのは夜の2時前だった。

 

 光永誠は自分が書いた楽譜の譜面に合わせてバチを持ったつもりで和太鼓を打つ仕草をした

 続 <毎週土曜日掲載予定>