これまでのあらすじ
和太鼓を初めて経験する新入生を含めて21名の和太鼓クラブの高校生たちが創立110周年記念の文化祭に選んだ演目『イエス・キリスト』の舞台はどうなるか? 西洋の文化に和文化の代表ともいえる和太鼓で挑戦する。
★★★
学園の中庭や川沿いの土手に咲き誇っていた桜の花もいつしか散り、代わりに山肌のツツジの枝に咲くの小さなピンク色の花に目がとまる。
学園のまわりの田圃は田植えの準備が進む。この連休中に田植えも終わり、水を張った水面に早苗の姿が風になびいて東から西へと流れるようにそよぐだろう。
光永誠の班に配置された新入生の磯部匡は光永の身体をみてびっくりした。父親と同じくらいの身長ながら身体全体が引き締まっていた。それに父親には無い全身からでてくる力を感じた。いや光永誠だけではなかった。横をみると4番目の太鼓の町田芳樹、5番目の南渕忠雄、6番目の副部長の横山優斗にもこれまで身近にいた高校生に感じた事のない力を受けた。7番太鼓の女子生徒白石かずえは母親の知り合いの同級生の娘上村佑子よりずっと年齢が上のように見えた。
自分たち1年生と2年生と比べてみると全ての面でその差は歴然だった。さらに3年生ともなれば大人と同じくらいの体格の人もいた。体格だけではなかった。言葉にも自信が溢れた人たちだった。磯部匡はどう変化したら、何が変化したら3年生みたいな人間になれるか不思議だった。
光永誠先輩は厳つい顔に比べ教えかたは優しく丁寧だった。最初は指導はバチの持ち方からだった。「バチは下端より一握りくらい開けて親指、中指、薬指でしっかり握り残り2本は軽くおさえるくらい。もう一つの握り方は親指と人差し指でしっかり握り後の3本はそえるくらい」言いながら自分が手にしたバチを示しながら手を上下に振ってみせた。磯部匡も自分でバチを握り、何度も手を上下してみた。
次は立ち位置と基本姿勢の練習だった。光永誠は太鼓の中央を前にして足を開いて腰を少し落とし、腰から上は頭まで真直ぐする。打つ時は腰を落とし、腕もおろしながら太鼓面をバチでうつ。次の動作は腰を上げながら腕をあげバチを構える。再び腰を落としながら腕も降ろして打つ。
「この動作ですね。そして太鼓の表面のほぼ真ん中を打つ。ちなみに端を打った時と真ん中を打った時の音の響きを聞いてみてね。自分でどう違うか確認する事、自分で確認する事が大切」
太鼓に向って上級生が解説を加え、実際に動作してみて、1年生に実践させるという指導は太鼓7台のどこでも同じだった。
早くも左右のバチを使って連打する音が練習室にこだまして賑やかになっていった。1時間ほど経った時、佑子は「これから2年生に次の段階、リズムトレーニングを披露してもらいます。連休あけからリズムに挑戦です!」
2年生が左右の手にバチを持って構えの姿勢をしてまつ、1番太鼓の小川清がリード役になって太鼓を打ち始めた。同じリズムを3回打ち終わり4回めから残り6名が加わり打ち始めた。同じリズムが切れ目なく続く。1年生から拍手が起こった。途中でリズムは変わったが大きな波のようにリズミカルな音が耳に響いてきた。磯部匡も思わず拍手していた。
休憩の後、立ち位置やバチの持ち方、打ち方、左右の手による打ち込みの練習を復習して2時間の部活は終わりになった。
最後に佑子が「家で練習するのは自由ですがお家の方によく理解してもらって練習してください。私などダイニングのソファーを太鼓に見立てて練習して、気が付いたら座るソファーの生地がかなり傷んでいて父親から嫌味を言われました。代わりにポリバケツのゴミ容器を逆にして叩けと言われて、一生懸命に練習していたら今度は『音がうるさい!』と怒鳴られ、代わりに軽乗用車のホイール無しのタイヤを用意してくれました。タイヤは太鼓面と跳ね返りがかなり違うので苦労しましたし、今度はバチが古タイヤで汚れるというアクシデントにも見舞われ、綺麗なバチが黒っぽく汚れてしまいました。それでバチに包帯を巻いて練習したものです。和太鼓の上達は練習、練習、これが一番の上達方法です」と一年生に向って笑顔で言った。
練習が終わって佑子は副部長の横山優斗に「演目の具体的内容の検討を連休明けから始めましょうか。1年生にも活気がでてきたことだしね」
「まず前回か前々回に話題というか議題にした『イエス・キリストを全面にだすものではなく、和太鼓が表現するとすればどうなるか?という試み』と『イエス・キリストと神との親子物語りとして表現していこう』と2つの内容ですね。1つ目の課題はストリーが成立した段階で検討することで、”イエス・キリストと神との親子物語”という内容を文書にまとめる作業を今家で続けているところです。連休明けのプロジェクトの会合前までに佑子さん示して二人でさらに検討してメンバーに示したいと思っているところです」と答えて別れた。
連休初日から横山優斗は旧約聖書の創世記、イザヤ書、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を2度3度と読み返した。
簡単なようで難問だった。聖書を傍らに置いてA4のコピー用紙の上にシャープペンシルの芯を立てたままボンヤリともの思いにふける時間が増えていった。
3日の憲法記念日、4日のみどりの日、5日の子供の日の3日間は想念の森を彷徨し続けていた。
6日土曜日の夜だった。神を親として考える、神が人を子として思うようになった根源的始まりは・・・
『創世記1/27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』・・・これが全ての出発だと気がついた。
旧約聖書1326ページ、新約聖書409ページ。さらにキリスト文化歴史2023年の歴史もここから始まった。そして創世記3章1節に主なる神がつくられた蛇がエバを誘惑し、エバがアダムに善悪知るの実を食べるように勧め、これによって人はエデンの園から追放される。
神にとって人の追放は喜ぶべきことか?否!
蛇、人に恨みをおくほどのこの事件が、神にとっては悲憤やるかたない悲しみだっただろうと予想できる。
その後、アダムの家庭のカインがアベルを殺害するという最初の殺人事件がおこる。そしてノア、アブラハム、イサク、ヤコブの時代へ・・・・・
さらに長~い歴史を経て聖書は新約時代を告げる。
ヨハネによる福音書 第 1章29~34節にある「『その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」
洗礼ヨハネは”神の子イエス”がイスラエルに知れ渡るよう尽力する。
「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」・・・
ヨハネはイエスを『神の子』と証した。
イエスは神を父として、自分が神の子であると自覚し、自らの使命を世に宣言する。
だが、イエスの伝道が進みむにつれ様々な困難な状況がうまれ、迫害が襲ってくる。
そしてヨハネの福音書17章に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 ・・・・わたしはあなたを知っており、この人々はあなたが私を遣わされたことを知っています。私は御名を彼らに知らせます。これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛がかれらの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」
と祈りを結ぶ。
この祈りののち、ユダによる裏切り、逮捕。大祭司による尋問、「お前もあの男(イエス)の弟子の一人ではないか」と問われてペテロは「違う」と否認する。死刑の判決、十字架で磔にされる・・・・
ヨハネ福音書を始め、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記述されているユダヤ教徒の中に誕生したイエス・・キリスト。
父なる神の願いを託された一人子、イエス・キリストの胸中・・・・
それを見つめつづける父なる神の歴史をかけた思い・・・・
イエス・キリストが抱き続けた心中の真(まこと)・・・・誰も知りえず、理解しなかった。
ゴルゴダの丘の刑場で同時に刑に処される二人の強盗のことば。
ルカによる福音書23章39節「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない』そして『イエスよ、あなたの御国においでになるときは、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」
磔の刑に処されながら右側の強盗のみがイエス・キリストを信じたという事実・・・
これ場面に父なる神は何処にいたのだろうか?
横山優斗は考えた。
天か?執行された十字架を見つめた群衆の中にか?
イエスの傍か?
イエスと右側の強盗が会話する声の聞こえるすぐ近くに?
A4のコピー用紙の上に置いたシャープペンシルが動いていた。
真っ白い紙に円が描かれ、その上をシャープペンシルで再びなぞっていった
イエス・キリストの死を天の父は喜んだろうか?否!神殿の幕が上から下まで真二に裂け、地震があり、岩が裂ける(マタイ福音書27章51)
・・・・ほどに慟哭したに違いない。
続 <毎週土曜日掲載予定>