93 退職しました 

 退職前、四十日を残した有給を取って休みとした。家でブラブラするのも落ちつかなくて二十日ばかり集落の山林の地籍調査の手伝いにでかけた。

 小学校のころから毎日見ていた海抜五百十メートルの山とその周辺の山林だった。山の頂上は戦国時代の城の遺構が残っていて県の指定史跡になっている。山に入る麓の集落から土地の調査が始まって、山の頂に至るまで土地の所有者の権利境に沿って測量してゆく測量業者の手伝いだった。

 背中にカッパと昼の弁当、測量用具の入ったバッグを背負い、手にはポール、腰には伐採用の鎌と小型ノコギリ。一端の山林作業者になった。小学生の頃、山歩きしながら遊びまわっていたから苦にはならなかった。私は山の急斜面を登り、測量用のポールを持って測量技師の指示に従って移動する。苔むした小川の流れる所もあり、首より高い笹の葉が生い茂った道のない斜面もあった。手鎌で草を刈り、ノコギリで小枝を切り取って、ポールを立てた。森林組合の人たちによって所有者の境界線と思われる境は伐採がしてあり所々にピンクの布切れが下がっていた。所によっては一つの斜面に数本の布切れが下がっている所もあった。

 「一斜面に所有者が何人もいる」ということだと教えてくれた。

 昼の食事は山の中だった。直射日光を避けて木立の中で持ってきた弁当を広げた。時には知らないで蜂の巣の近くに腰掛け、気がついて慌てて逃げた。谷の斜面を下りている時、測量技師が突然「何かが通り抜けて行った」と言って指差した。測量士は熊対策用の腰につける鈴も持っていた。カッパを着て小雨の時も作業は続いた。測量技師たちはスマホで気象庁のレーダーナウキャストを見ながら休憩時間や仕事の終わりを判断していた。雪が降った時でも「もちろん仕事」だと言っていた。

 退職日の九月三十日を越えて、健康保険書を返却しに会社に出向いた。全ての手続きを終えて工場の正門から出てきた。

「入口から入社して工場棟を左回りに四棟移動になって裏口から出る」と言っていた言葉は出口が入口になって完了した。門を出ながら振り返ったが感激も感傷も無かった。

 七度にわたる社内移動に二回の再雇用契約、特に最後の二年間、自由に仕事をさせてもらって事も含めてささやかながら自己満足と感謝で会社を後にした。六十七歳になっていた。

 長男が小学校入学して中学、高校、大学生になり卒業して就職して結婚、孫も誕生した。私にとって慌ただしかったが子供を育てるという意味での役割も一区切りついた。

 十月六日鳥取県米子市で一泊し翌日米子空港から韓国ソウル・インチョン空港に向かった。米子空港は山陰特有の曇り空で北風が強かった。秋だった。

 

94 韓国の秋 

 90年代以降、我が家の海外に行った過去を列挙してみると、’93年 アメリカ・アラスカ ’94韓国  ’96年韓国 ’97年韓国 ラトビア ’98年韓国 2000年 韓国9/4~24’ 01年 韓国 ’06年韓国 ’11年韓国 ’12年韓国 ’13年韓国 ’14年韓国 ’15年韓国 ’16年韓国 ’17年韓国 ’18年韓国・・・

 妻一人で出かけたこともあったし、私一人で出かけた事もあったし、家族で出かけたこともあった。

 列挙しながら判ったことは途中出かけていないのは妻の両親の入院や死去、子供の進学から就職までの間くらいということが判った。しかも、ほぼ毎年のように韓国へ出かけている。

 毎回、二泊から三泊の旅行だった。行き場所はソウル市内の事もあったが、それ以外はソウルから北東の地、京畿道だった。私にとっては信仰の地だった。

 十月七日、ソウル・インチョン空港に13時に到着。空港からバスで一時間半ばかり高速道路を走って修錬苑に到着した。

 1990年くらいから何度も訪れていた。初期のころは高速道路もなく何時間もかかって到着した。堰止められた大きな湖の近くの山裾に大型テントが幾つも並びたっていた。事務連絡は韓国語、英語、日本語の放送だった。金曜日から日曜日までか土曜日から月曜日までの三日間の期間。寿司詰め状態のテントの中の生活でトイレは仮設トイレ、寝具は大きな軍隊用寝袋、修錬もテントの中であった。食堂は坂道を下った所に屋根付き広場にテーブルとイスが何脚も置いてあった。朝はパンと牛乳とリンゴ。昼と夜はバイキング式の韓国料理だった。一様に唐辛子で辛かった。

 雨の続く日は大変だった。特に入口は悲惨だった。テントの外の道路は濡れた土で滑り、靴は泥だらけになり、衣類は簡易雨具のカッパで濡れ、隣の人の雨具でさらに濡れる。

 大型テントは学校の集会で使うテントの何十倍もありトラックが何台も入るようなもので農業用ハウスのようだった。

 夏は太陽光線に照らされた暑さと人の多さで毛穴から汗が噴き出た。当時はもっぱら役事と呼ばれていたものが三日間の主だった行事だった。

 一年ごとに施設は変化し綺麗になっていった。大型テントから外装が石造りの鉄筋コンクリート製の建物に変わった。内装も整い照明も明るくなった。

 その後、祈祷院が建ち、教育会館が建ち、宿泊施設も建ち、近くに総合病院も建設されていった。毎年訪問しながら時間の経過とともに変遷してゆく修錬苑の姿をみながら歴史(時間)の重さが実感として感じられるようになった。

 修錬は十月七日開講式で四十日が始まった。

 ヨーロッパ、アフリカ、アジアなど世界から集まっていた。男女の青年が多かったが、妊婦さんや保育園児の子どもを連れた母親も参加していた。途中参加者や途中終了者などあったが、日本人は総勢100名くらいだった。

 そのなかで私は最高年齢者だった。朝五時半起床、夜の十時半の就寝まで一応決まっていた。内容は曜日によって違っていて講義の時間、奉仕活動の時間、スポーツの時間などさまざまだった。

 健康診断の日もあった。起床後、六時から三十分の輪読会、その後会館の清掃、八時まで食事休憩、その後一時間の役事、休憩の後講和。十二時半から食事、その後、自我省察と自由時間。二時四十分から午後五時まで休憩をはさみながら講義。終わると風呂、夕食、休憩など、七時から八時まで夜の役事、休憩後、九時から様々な講義、十時から夜の祈祷会があって一日が終わるというスケジュールだった。

 長年の会社勤めと環境的様々な事に追いかけ続けられていたが、一呼吸して自分の過去を振り返る時間をやっと持てた気がした。私が十二指腸潰瘍で四十日ばかり入院した時、主治医のお医者さんが言ってくれた。「自宅で養生はできるけど、何故入院すると良いか知ってますか?それは貴方を取り巻いてストレスを与えている様々な環境的要因を遮断することによって、不要なストレスを取り込まなくて身体の回復する力がそれだけ早く、強くなるという事のために入院する処置をとるんですよ」というような主旨の事を教えてくれた。

  韓国の地に居ながら日本人や韓国の人、ヨーロッパの青年、アフリカの人たちと接していると、「ここは何処?」というようで別世界にいるような気持になっていった。

 一年の早さを友人が言っていた。「四十歳代は早歩き、五十歳代は走るスピード、六十歳代は百メートルを全速力で走っている感じ。それ以降は、これから経験する」「?!」判ったようで判らなかったが、気持ちは理解できた。四十日の日数は何処にいても、何をしていても同じスピードで進んでいるはずだが・・・・。

 早くも感じ、ゆっくりとも感じる不思議さ。四十日の韓国での修錬期間で、私が最も良かったスケジュールは一日のなかで自我省察(じがしょうさつ)の時間をもてたことだ。聞きなれない言葉だったが、瞑想でもよし、自分の過去を振り返るのもよし、一人で黙念するのもよし、という時間だった。

 

 この文章も帰国してから書き始めたものである。小学校の通知表一つで学友の事、家族の事、当時の近所の生活環境など様々のものが思い出されてきた。

記憶の彼方から蘇ってきて今、自分が生活しているのは何処だろうか?と懐疑に陥ったことも二度や三度ではなかった。蘇った記憶の当時の世界から途中の時間を短絡して現在があっても『可なり』と納得できる不思議さだった。