79 Uターウンは渡り鳥?回遊魚? 慌ただしく平成四年(1992年)が始まった。

 二月一日から、実家から転職先の会社まで軽自動車で、島根県と広島県の県境を越えて三十キロの道を通い始めた。冬期の真っただ中だった。雪道を自家用車で走るのは久しぶりだった。良く知っていた道だったが雪道はまた違った難しさがあった。

 冬用タイヤは持っていなかったので、夏用タイヤで雪道を走った。わずかな雪であったが、カーブでハンドルを切った。車は別の生きものようにハンドルの方向と無関係の方角に走って行った。

 慌ててブレーキを踏むと今度は車が回転して車道の縁石に乗り上げた。家に着くまで何度も冷汗をかいた。

 

 翌日、近くの自動車屋さんで冬用ダイヤを四本購入した。冬用タイヤを装着して走ったが、スリップする感覚は残ったままだった。出来れば四輪駆動車にしたかった。雪の少ない年だったが時速三十キロのノロノロ運転で一時間以上の通勤時間になってしまった。三月末、いよいよ世帯道具一式の引越が始まった。東京から引越しする時には軽トラックに三台くらいの荷物だったが、その後、家族が増えたこともあり中型トラック一台分くらいの荷物に増えていた。知り合いに紹介してもらった業者による引越しだった。引越し代金七万円だった。

 八月に三階建ての町営住宅の新築棟が完成したのに合わせて入居した。三階の一番の西側の部屋だった。六畳が三部屋、キッチン・リビング六畳に風呂場トイレ、玄関つきで三万五千円だった。山陰にあった大学の教育学部に二年遅れで進学のため故郷に離れて以来二十三年ぶりに故郷の地での生活が始まった。 

 故郷から北の方角に向かって旅立ち南から帰ってきた。故郷から上に向かった飛びあがり落下して故郷に着地した? 渡り鳥が帰ってきた。Uターン?故郷に錦を飾る? 回遊魚が帰ってきた?単身で出て、家族を伴って帰ってきた。

 やっと社会人になって成人式を迎えたような気分だった。そういえば成人式のあった年は田舎にいた。浪人中で成人式にはもちろん参加しなかった。

80 夜勤一人作業 入社して受け入れ部門に配属になった。大型トラックから重さ二十キロくらいの製品の詰まったダンボール箱を荷台からローラにのせる作業だった。トラックの荷台の奥の方になるとローラを延長しての作業になった。

 朝、八時半の始業から始まり、十時に別便の大型トラックと四tトラック、数量の多い時はもう一車増便があり、終了するのは正午近くになる。午後十二時四十分に通い便といっていたトラックが二台入ってきた。近県の工場、本社からのトラックだった。事務連絡物と翌日にそれぞれの工場に配送する材料が送られてきた。通い便の荷降ろしと荷積み作業が終了するころ県内の別工場から四tトラックが到着。再び製品の搬入が始まる。午後の休憩するころに島根県の工場から製品が大型トラックで運ばれてきた。県境を越えて百三十キロを三時間強かけて帰ってくる。豪雨の日、強風の日、風雪の日などは到着時間が大幅に遅れ終業ベルが鳴ってから作業開始になった事もあった。この会社に慣れるにはちょうど良い期間だった。

 数度の転職で知った「会社の『ことば』を修得すること」に集中し、後は「慣れる事、習慣化する事」を自分の日常の目標にした。

 しばらくすると正式に配属先が決まった。製品の出荷部門だった。出荷作業の多くは自動化されていた。大きな倉庫の棚から出荷の製品が入っているパレットを自動走行クレーンが取りに行って出荷口まで運び出し、そこでもう一度、左右に動く自動運搬機にパレットが乗りうつり、五ヶ所の内のどれかの出荷口から出てくる。一応、出荷指示から出荷口まではPCでコントロールがされていた。出荷個数が多くなると午前中で出荷作業が追い付かなくなり、出勤時間を早めて深夜からの勤務になった。

 

 夜勤は夜中の0時三十分スタートだった。逆算して十一時に起き、独り妻が作ってくれていた夜食を食べて、十一時半には玄関の鉄のドアを近所迷惑にならないように締め、孤独をかみしめながら階段を降りる。

 空を見上げると星が花火のよう輝いている時もあり、お月さんが白い輪の中におぼろに見える時もあった。また真っ暗な新月の時、駐車場の草むらから聞こえてくるコオロギの鳴声にやるせないせつなさを感じた事もあった。

 団地の駐車場から表通りに出るまでテールランプのみにして一階の住民の眠りを妨げないように気をつけて走り出た。

 

 同じ工場の違う部署には三交代勤務者が常時いたが、出荷作業は当初、一人作業だった。時には、自動走行クレーンに棚からパレットが乗り移る工程でトラブルが発生して異常ランプが点燈した。深夜、ヘルメットを被り、安全ベルトをしめ、列車の鉄のレールのような走行レーンを歩いて上下する自動走行機まで行き、垂直のハシゴを登って行く。なにしろ十三段目。一段が約一メートル九十くらいあったから、十三段目になると二十四、五メートルの高さだった。その上で周囲の金具に安全ベルトのフックを掛けての作業だった。

 周囲がパレットで囲まれ、しかも灯りは天井に吊るされたハロゲンランプだけだった。 はるか下にレールが見える。穴の中を覗き込んでいるようだった。ここから落下すると・・・・周囲の暗さが恐怖心を和らげてくれてはいたが、深夜一人作業の孤独さはまた格別だった。そのうち一人作業は取りやめになり二人体制の勤務になった。この部署でフォークリフト運転許可書を取得することができた。

 一ヶ月の給料は土、日、祝祭日の休日、深夜勤務の割増も加わってコンビニの弁当会社と同じくらいの額になった。さらに六カ月過ぎた後の年二回のボーナスは一回平均二・五カ月分の支給があり、田舎では恵まれた所得だった。