やまぶきの花(28)貧しくとも新婚生活 | 小説 ♪絶唱♪

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ドキメンタリ-風小説絶唱
epilogue《エピローグ》小説それから
第3部 こころ 75歳になった男が感じる天の役事
第2部 共鳴太鼓 未来を背負う若き世代の物語
第1部 やまぶきの花 戦後まもなく生まれた男が生きた昭和、平成、令和の物語。

  

65 取材記者の日常生活

  文化部テレビ・芸能欄担当で一年経つとすこしづつだがテレビ各社の様子もわかってきて新番組の記者発表やスペシャルドラマの製作発表の連絡、記念パーティーの招待状がくるようになった。

 記者会見場では記者でもありカメラマンでもあった。今でもそうであろうがスポーツ新聞各社はスポーツ面と同じくらい芸能欄に力を入れていて記者一人とカメラマンが一人必ず顔を出していた。私はカメラマンの役割もしなければならなかった。舞台に並んだ出演者の顔写真を撮影するため出来るだけ前の方に陣取って位置を確保しなければならない。撮影が終われば次は後方で出演者のコメントをメモ書きする記者だった。コメントはマイクの受け答えであるから会場内であればどこでも聞く事ができた。だが写真はできるだけ近づいてカメラ写りの良い場所で撮影してこそ写真の価値がきまるとあってカメラマンは勢い殺気立ってくる。

 ある時の記者発表で出演者が横並びの雛台のすぐ前、中腰で撮影して急いで後方に下がろうとして伸びあがった。四方のカメラマンから叱責する声がおこった。

「コラ!立ち上がるな。邪魔だよ」私は慌てて中腰になったがカメラ撮影時間は間もなく終了してしまった。記者発表が御開きなったとき、あるカメラマンから嫌みを含んで言われた「せっかくの写真をとりそこねた」と。

 それ以後はカメラマンの立ち位置には気をつけるようになった。新番組の発表パーティーにも出かけた。民放ではドラマには必ずスポンサーがついていていた。スペシャルドラマ、夕方八時九時の視聴率の狙える時間帯のドラマには製作費もかさみ大きな企業のスポンサーだった。

 発表パーティーでは製作に携わった女優・俳優はもちろんのこと、脚本家、監督などのスッタフ、さらにスポンサー各社の位置ある立場の人が招かれた。マスコミ各社にも紙面や写真で宣伝されることを目論んで招待された。

 会場は赤坂プリンスホテル、ホテルニューオータニなど東京の有名なホテルの宴会場だった。立食形式で屋台がならびバイキング方式の豪華なパーティで帰りには必ず手土産までついていた。

 テレビ各社の取材とともに新作の洋画の公開前に記者への試写会があり出席した。大きな映画館での試写会もあったが、輸入会社の十五人くらいの座席のある試写室での試写会が多かった。

 試写会が重なって行われる時は三本も四本もあり、午前中二作品、午後二作品。それぞれ異なった会社に電車や地下鉄で移動して観た。四作品みて試写のある会社を出るとすでに街路灯が灯っていて帰宅を急ぐ人や繁華街に行く人で混雑する時刻だった。

 記事を書くことは毎日ではなかったが週一回の紙面発表前日は出社するとすぐ、メモや番組宣伝から渡された資料などを見ながらの原稿書きに追われた。過去の作品や話題が参考資料として欲しい時は評論家大宅荘一が収集した膨大な量の雑誌が閲覧できる東京都世田谷区に今もあると思うが大宅荘一文庫に足を運んで週刊誌や月刊誌を閲覧しコピーをもらってきた。

 整理部から記事が足りない時は継ぎ足し、多すぎる時は削り短くするなどの作業にあたり深夜まで及ぶこともあった。

 

66 貧しき新婚生活

 ワールド日報に移って二年目に家庭をもった。妻は家庭を出発のため北海道から東京に来た。75年に祝福を受けてからすでに七年たっていた。女性が三十歳になるまでに家庭を持った人は少なかった。入籍は合同結婚式があったその年に済ませていた。

 二人とも故郷の地に帰ることもなく、何かと便利な東京での生活が続くだろうと思って本籍地を東京に移した。彼女は一時アメリカに渡り、帰国して栃木、北海道函館、旭川に行っていた。

 記者時代は三畳くらいの部屋にもう一人の記者と二人の寮生活だった。寮での朝食、夜の弁当は支給されていた。給料は月当たりの生活費くらいで多くはなかった。

 食費や生活雑貨費で給料のほとんど消えてしまい、もちろん貯蓄など出来なかった。まれにアルバイトをした。今でも覚えているのは西武狭山線の所沢球場前駅の拡張工事で鉄の線路を運んだことだ。西武球場がホームグランドになるということで拡張工事だった。二人で一本のレールを運んだ。重たくて、重たくてフラフラになったのは良く覚えている。また仕事の現地に向けて出発して途中で雨が降ったら、仕事は休みになっても、その日の賃金はもらった。

 そういう経済状況での家庭出発だった。妻は家庭出発前のアルバイトで得たお金で寝具を新調したが、私の寝具は業界紙の記者時代に誰かからもらって使っていた布団をそのまま使った。

 住まいは日報の家庭用に斡旋されたモルタル作りのアパートだった。玄関を入ると三畳間にキッチン、トイレ。ガラス戸を開けると六畳間の寝室兼生活部屋だった。風呂は庭に四家庭共同の簡易風呂だった。

 家庭出発に際して、教会の儀式である三日儀式を行った。アパートに風呂も寝具も整っていなかったので上野のホテルに三日間泊まった。祈りながら冷水で沐浴し、冷水に浸した聖巾といわれ清められた布で全身を拭き、清潔な下着と寝巻に着替えて寝室で正面に向かって三度足腰を折って敬礼し、次にお互いに向き合って同じよう足腰を折って敬礼し合い、天に向かって祈りあった。そして男性が床に上向きになって身体を横たえ、女性が男性を生み返るような気持ちなって、男性の上に被さるようして愛の行為を行うという内容だった。二日目も同じ内容で沐浴と清めと厳粛さの中で同じように女性が主体的立場で儀式が進んで行き、三日目は沐浴と清めと厳粛さの中で、始めて男性が主体的な立場で女性を愛する行為をなすことができるというものだった。

 南こうせつとかぐや姫が歌っていた”神田川”の♪あなたはもう忘れたかしら~窓の外には神田川~三畳一間の小さな下宿、あなたは私の指先みつめ悲しいかいってきいたのよ♪若かったあの頃、何も怖くなかった♪ただあなたのやさしさが怖かった♪・・・・や、漫画家上村一夫が雑誌「漫画アクション」で描いた同棲時代などに象徴され、流行り始めた”同棲”に対するアンチテーゼだという自負はあった。

 私は童貞だったし、妻は処女だった。家財道具は本箱、冷蔵庫、後は食器類くらいで洗濯機は共同使用のモノを使わせてもらった。

 夏の暑い夜、余りの暑さに耐えきれず冷蔵庫の冷凍庫のドアを開けてクーラー代わりにして寝てしまった。翌日、冷蔵庫の下の部分が濡れていた。雑巾で慌てて拭きあげることもあった。芸能記者でありながら一着しかない黒のブレザーを着て何処にでも行った。ホテルのパーティにも記者会見にも・・ 靴も長く履いていると靴底が剥げれてしまってパクパク状態になってしまい、急遽接着剤で補強もした・・・

 部屋が余りにも殺風景なので机と貴重品入れのボックスを作った。ホームセンターで材料にラワン材を買い入れ、玄関の狭い土間でカンナとノコと金槌と釘を使って仕上げた。ボックスはそれから四十年近く愛用した。

 十二指腸潰瘍の症状はすこし和らいでいたが背骨の右上に鈍い痛みが続いていた。会社の近くの都立渋谷広尾病院で検査を受け潰瘍の部分に膜をつくるという薬と胃酸の分泌を抑える薬を処方してもらって服用していた。

 その年の大晦日、妻と二人でワールド日報の仕事が終わったその足で明治神宮に参拝にでかけた。十歩前進して立ち止まり、十歩前進して立ち止まり境内に着くまで何度も繰り返した。境内に入っても前の列が進むまで立ち止まって待った。昭和五十六年(1981年)が終わり‘五十七年が始まった。参拝が終わったのは午前三時を回っていた。大晦日だけは朝まで電車は走っていた。二日付けの新聞は休刊で元旦の会社は休みだった。