30 高校生活、あぁ大学受験生 高校生活は授業内容のレベルの差に圧倒され緊張の毎日だった。附設の中学校から持ち上がりで進級してきた生徒との学力の差は思い知らされた。特に英語の発音、英文の日本語解釈においては格段の差があるのを感じた。中学校では国語のなかにあった古文と漢文が独立した教科として授業があった。
古文はこの高校の理事長の奥さんだった。まず動詞の活用から教えられた。未然、連用、終止、連体、仮定、命令。「見ず、見たり、見る、見る時、見れば、見ろ」と。漢文はお寺の住職の先生。社会は一年の時は地理、理科は生物と地学、英語はリーダーと文法のグラマー。これに数学、現代国語。プラスして体育と美術が加わった。
合計すると十一教科になっている。これが一週間のカリキュラムのなかに組込まれていた。一年生からだったか、二年生だったかは良く覚えていないが月、火曜日は午前中四時間、午後四時間合計八時間の授業。水曜日は午前中四時間午後二時間、木、金曜日は八時間授業、土曜日は午前中四時間で終業のチャイムが鳴った。
朝八時半の授業開始から始まって、夕方五時十分まで授業だった。通学バス停留所の発車時刻が五時十分だったので最後は教室を抜けだして帰宅した。数学、英語など主要科目は二時間続けての授業だった。
教科書、参考書、ノート、それに英語、国語、古語辞典が入り、昼の弁当をいれると手持ちのカバンはいつもパンパンに膨れあがっていた。帰宅して毎日予習、復習に時間をとられテレビを見て気分転換をしようという心の余裕すら失ってしまった。
高校生活が始まって一カ月も経たない五月下旬、祖父が亡くなった。新居に移って数カ月たった時だった。葬儀は自宅で行われ勤め先から兄も帰郷してきた。
兄にとって祖父は父親でもあったように僕は思っていた。父が戦争に行き、シベリヤに抑留され帰国したのが昭和二十三年秋、昭和十八年生まれの兄は五歳になっていた。自意識が芽生え成長し、親の愛情を最も感じる三,四,五歳のころ父はいなかった。”祖父が父親だった”と、今の私には十分理解できる。(今、孫が四歳前であるのでより強く感じている)葬儀が終わり祖父の遺体は火葬にされた。火葬場から遺骨になって帰ってきた。
僕は祖父の真っ白い遺骨をみながら心が凍みるようだった。亡くなる前の年のことだった。新居に移ってすぐに先祖の法要が行われた。
その席で亡くなった祖父が涙を浮かべて住職に言葉を発していた。その時の光景は良く覚えているが、亡くなった祖父が涙目で何を質問していたかは聞きとれなかったし、理解できなかった。ただ住職が言った「念仏にすがって・・・」という言葉は聞き取れた。葬儀は終わった。静まりかえって家の中の空虚さが前よりましたようだった。
僕の日常が始まった。家と学校との往復がまた始まった。田植え作業は終わっていたので農作業の手伝いはほとんどしなかった。二階の北側の一室を僕の勉強部屋に与えてもらった。一学期、二学期、三学期ごとに中間試験、学期末試験があった。それの間をぬって中国ブロックの模擬試験が五月、六月。九月、十一月。二月とあった。
自分の試験結果とクラス平均が示され自分の席順までハッキリ伝えられた。ブロック模試でも同じように示された。頭のなかから勉強という文字が消えたことはなかった。ただ一週間に数時間単位あった体育と美術の授業はけっこうリラックスできたのを覚えている。昭和四十一年(1966年)ビートルズが来日した年だった。
31 高校生活とインスタントラーメン 確かに毎日の授業を追いかけてゆくのは大変だったが、今思うと、それなりに充実していた。胸に中学校の先生との『大学に進学します』という約束を全うしたいという思いは失っていなかった。
バス通学は楽しみだった。バスを待っている間の友達とのちょっとした会話、車窓から見える風景、乗り降りする一般乗客たちの顔・・・・・・これだけのことだが僕には新鮮だった。朝の通学バスの中で先輩たちは今日の授業のために参考書や教科書を広げていた。僕のかっての同級生(すでに二年生だった)は何時も赤い小さい本をポケットから出して暗記していた。
縦十二、横七、厚さ三センチくらいの”豆単”だった。当時は電子辞書などなかった。英語の単語を暗記するために旺文社が発行してた英語の単語熟語集で、今の携帯電話より小さいくらいの大きさだった。
暫くして僕も同じようにポケットにいれるようになった。本文一ページ目の最初の単語は「abandon」=捨てる、だった。冗談で「もう捨てる!」とか言っていたのでよく覚えている。やがて夏休みが始まった。七月中は英語、数学、古文など主要科目の補習が通常の学期と同じようにあった。一階の教室の外のグランドではバレー部やテニス部の夏休み練習が始まっていた。 クーラーなどない時代で開け放った窓から風とグランドの女子生徒ののびやかなかけ声が教室まで容赦なく響き渡って来た。
補習はお盆明けから始まった。夏休みは有って無かった。夏休みが終わって学校にも慣れてきた頃、クラスメイトと一緒に三年生の上級生に呼び出され放課後三年生の教室まで来るようにとのことだった。木造の校舎の階段をあがり、始めて三年生の教室に出向いた。
木造校舎は歴史を感じさせる造りだった。廊下に三年生二人が立って待っていた。一人は同じ中学校出身者で顔は知っていた。廊下に直立した姿勢で並ばされ、朝夕の挨拶の仕方を真面目にやれというような内容の話を聞かされ、何度か練習させられた。だがこれ以上のことは無かった。
秋の稲の刈り入れ時期になり農家にとって忙しい季節になった。バスに乗って家につくと夕方六時近くになっていたが、太陽は西に残り明るかった。
両親は谷間にある田圃に行っていてまだ帰宅していなかった。風呂釜に水を入れ焚き込み口にマキと小枝を入れ丸めた新聞紙に火を点ける。風呂沸かしが僕の役目だった。二階にあがっていると外から耕運機のエンジン音が聞こえてきた。
窓の外に耕運機に牽引された台車が見えた。台車には天干した稲束が山盛り積まれていた。「ちょっと手伝ってくれないかなぁ」階下から父親の遠慮した声が聞こえてきた。僕は教科書を広げたまま、机に数冊重なった問題集、宿題を見ながら、その上に親の苦労の姿を重ねて階段を降りていった。何時も返事をしないで・・・・・・。
両親と食事を終わって一度寝て夜十時ころ起きだし、夜中の一時過ぎまで机に向かうという一日を二回に分けて生活したこともあった。ストーブを点けると温かさで眠くなる。毛布を身体に巻き付けて机に座った。
お米の出荷作業が終わるころ、農家の家々を回ってくず米を回収する業者が来ていた。米をお菓子の原料に利用するためと聞いたことがある。
業者はお米の代金のかわりに袋入りインスタントラーメンを置いて帰った。夜中起きだして一人で鍋にお湯を沸かし麺を入れ、スープの素を入れ椀に移して二階の勉強部屋に運んだ。部屋がラーメンの匂いでいっぱいになった。
やっと農家にもプロパンボンベが農協から運ばれ、台所の煮炊きに利用する時代になった。