22 我家の最初の洗濯機と冷蔵庫 我が家に『家電』と言われるものを父が購入したのは洗濯機が最初だった。

 それまでは洗濯板と固形石鹸を使って風呂場か家の傍の小川でゴシゴシと洗っていた。何しろ家族六人分の洗濯量となるとかなりの量になる。これを母一人で・・・・。朝昼夜の食事の準備、昼の農作業、さらに家畜の餌やり、子供の学校のこと、モロモロのこと・・・・改めて農家に嫁いできた女の人の苦労の姿を母の姿に重ねて思う。

 今はただただ頭を垂れて『有難うございました』と言うしかない。電気洗濯機は洗濯槽がグルグルまわり時間がくると停止する。次は槽から取り出して手で絞って再び水を入れ”すすぎ”の工程だ。やがて洗濯槽の横に回転する押棒をレバーで手回する洗濯機が我が家に入ってきた。布団のカバーなど押棒から出てくる洗濯モノは長い板のようになっていてちょっと面白かった。

 時代は、僕が中学生になったのが昭和三十七年、翌々年の昭和三十九年(1964年)は東京オリンピックが開催された。

 農家では田圃の土起こしなどの作業は和牛の力から徐々に軽油エンジンの耕運機を購入して使い始めた。父は耕運機の動力で後ろに台車を付けて荷物を運ぶ車両も購入した。牛車に比べてスピードも運ぶ量も増え、作業手段の大変革になった。中学生になった僕も学校から帰宅すると父と母が炎天下で農作業する姿をみながら、家が商売をしている友達を恨めしく思い嫌々ながら手伝ったものだ。

 このころになると父は以前よりは少しは健康になったが農閑期には必ず近くの湯治場にでかけて静養していた。我が家で白黒テレビを見ることができるようになったのもこのころだった。

 それまで毎週日曜日午後から始まる西部劇「ララミー牧場」を集落の上級生の家にみせてもらいに行った。アメリカ西部の牧場を舞台にしたピストルの早撃ちガンマンと悪人たちの西部劇だった。解説の淀川長冶さんのお話も楽しかった。「すごかったですね。楽しかったですね。それじゃまた。サヨナラ、サヨナラ」の声が今も耳に残っている。一話完結で毎週ワクワクしながらその家に通った。

 その家も農家だった。毎週の事で、その家に迷惑になると感じて父か祖父の判断で家にテレビが入ってきた。なにしろ谷の間にある一軒家。回りの山の先にはさらに高い山。アンテナとテレビまでの距離は二百メートルくらい。途中に増幅器をつけてやっと見れるくらいになったものの電波状態が悪く、テレビの映像はザラザラで雨のシーンの連続だった。でも、家でテレビを見ることができる。ワクワクだった。

 印象に残っているのは確かNHKが放送していた『黒姫城の兄弟』だった。風の強い秋など風向きによってアンテナの位置が変わり画面が映らなくなった。僕がアンテナのある山に入って弟が画面の近くで互いに合図し合いながら受像とアンテナの方向とを定める作業をした。それまでラジオの音声でしか知り得なかった音楽や国内の様子が映像と音声を通して知る事ができるようになった。驚愕的な事に違いなかった。

 紅白歌合戦やロッテ歌のアルバムの番組から、宮田輝、高橋桂三、玉置宏などの名司会者の声や華やかな歌手の歌声が耳に響いてきた。ケネディ暗殺事件もテレビで知った。

23 豪雪、母に埋もれる 今でもいわれる『三八豪雪』昭和三十七年十二月から三十八年一月にかけて降り続いた豪雪。日本列島のほぼ全域域に影響があった・・・というのは後年知った。僕が中学一年生の冬休み頃のことだ。

 二階の窓を開けると一階の屋根と同じくらいの積雪だった。庭から雪のトンネルを抜けて歩くと玄関口。玄関の引き戸を開けると家の中は真っ暗だった。両親と二階の後ろの間で一緒に床を並べて生活した。たしか二月になっても同じような生活だった。二階の前の部屋には祖父が生活していた。一階の部屋は外と同じような気温で寒かった。

 三学期が始まって数日は休校になった。家の軒は雪に埋もれ、二階の窓から屋根を通り出入りした。積雪は空気中の水分を吸収して重量が増し重みで一階の軒の骨組みの材木が壊れてしまう。

 これを防ごうと父と母は屋根の雪と地面の積雪の間をスコップで雪を取り除き軒の保護に一生懸命だった。学校が早めの下校となって家に着いてみると二階の部屋で母が寝巻姿で床に伏していた。母の顔は幾分か青白かった。

「雪の下敷きになって死にそうになったんよ。屋根に積もった雪を下からチョンチョンとスコップで突っくと、屋根雪が一度にドッドとワシにめがけて落ちてきて、胸の上まで埋まってしまったの。声を出そうにも声は出なくなり、身体はだんだん冷えてくるし、手は動かないし、もう死ぬかと思った」と母は言った。家の表で除雪の作業をしていた父がたまたま家の裏に回って見たところで母が雪に埋もれているのを発見して助けだしたということだった。            

 給食が終わって昼休み、窓の外に突然粉雪が舞いあがり鈍いドンという音がした。一階にいた僕たちは舞いあがる粉雪を見ながら最初は屋根からの落雪と思っていたが、黒い塊が同時に落下するので窓際に駆け寄ってみた。

 二階の教室の上級生が窓からダイビングして落下地点の粉雪が舞いあがっていった。隣のクラスの窓の下にも粉雪が舞いあがった。二階の窓から盛んに拍手と歓声が起こって、事の次第を理解した。のどかな時代だった。

 家の茅葺屋根から瓦葺きの屋根になった時、囲炉裏がなくなった。小学生のころだった頃、父が台所の一部を改造してまきストーブを設置した。僕は熱くなったストーブの天蓋を誤って踏みつけて足裏を火傷してしまったこともあった。

 冬といえば毎年一年の始まる一月一日に登校して新しい年を祝う式典が講堂であった。壇上の横には大きな花器に梅松色ある花が飾られて校長先生がお話をしていた。この新年の行事は何時の間にか無くなってしまった。

24 将来の夢と流行り事 中学二年になると生徒間で進学か就職かの話題が出始めてきた。担任の先生との面接はもっと具体的に聞かれ始めた。

 そのころ世間では東京オリンピックが来年開催されることで景気が少し良くなり山村にもゆっくりと余波が感じられた。母の実家に行った時、祖父が国鉄列車で県境を越えて商店街に買い物に出かけた話しをしていた。この鉄道は中国山脈を横切ってやっと開通した念願の鉄道だった。確か去年全線廃止(平成30年2018年)となった。

 僕は兄も進学していたし何となく”高校へ”という思いはあった。クラスでも三年になると早々と就職すると言っていた生徒は秋には会社が決まっていた。卒業時に同じクラス四十人のうち五,六名くらいは就職先が決まっていたと思う。

 僕は集落の上級生が日本海側の市にある県立工業高校に進学したという噂を聞いていて何となく心引かれた。授業の科目では理科はまあまあ理解できたし、好きでもあった。それと技術、社会、ちょっとおくれて算数。国語は苦手で音楽にいたっては嫌いというより判らなかった。

 でも、家ではラジオから流れてくる英語の歌手グループなど深夜まで聞いていて翌日学校で話題にしていた。学校生活は結構充実していた思い出がある。

 そのころ切手ブームで生徒間で切手の売買が流行った。オリンピックのカラー切手が出回り、東海道五十三次の浮世絵の切手や江戸時代の浮世絵師による美人画の切手など手に入れてシート帳に貼りつけていた。(最近までこの切手シートは保存していた)これがこうじて世界の切手を雑誌で注文するまでになった。切手の図柄で最もよく覚えているのはインド。絵柄と色彩に独特のものがあった。

 男子生徒の間ではズボンの生地を細くし、脛に向かっての生地を広く取ったラッパズボンが流行り始めた。クラスの男の子がミシンを使いこなして広くする部分の生地を別生地で継ぎ足してさらに広がったラッパズボンにして学校に来た。家にもミシンがあった。

 僕も何とかミシンを使い膝から上は細く、膝から下は広くしたラッパズボンに直したものだ。余りに細くしたため腿が入らず、ミシン糸目を切り取り、切り取りして再び縫い直した。朝出かける時には切り取った縫い目の横にハサミを入れ過ぎて生地が切れていた。持ち物も赤い手帳をポケットに入れて得意になった。

 他人とちょっと違う自分で有りたいと思っていた年ごろだった。クラブ活動には入らなかった。学校が終わった時などサッカーに興じたものだ。特に冬場の雪の中でのサッカーは授業の科目にも在り寒さのなか遊び感覚十割で楽しんだ。勢い余ってゴールのポールに顔をうって眼鏡のガラスを壊したこともあった。

 一度ならず、二度も・・夕日が校庭の西の山かげに落ちるのを見ながら”これからどういうふうに生きてゆくのだろう"とぼんやりした思いにとらわれた。