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mikiのブログ 神様の憩う処は何処?

永遠の生命に責任を持つ。神様の臨在を日々実感し神様を解放し共に憩う永遠の安息地。真の愛で世界を包む!


キリスト教には多くの謎?なぜ?どうして?

と、、謎?のオンパレードですが・・・

その中で小生が一番悩んでいる謎のひとつに、

パウロ 
《元サウルだったが招命ごパウロ(小さき者という意味)に改名。》の謎です。

パウロは元、ユダヤ教の律法学者の最先鋒であり、ユダヤ教とその戒律を守る、エリート中のエリートでしたし、当時世界を支配した強大なローマ帝国の市民(世界中、何処でも行けるパスポートを持っていた!ここが凄い!)でも有りました。

そのパウロが当時、もっとも怪しい宗教であり、野合の衆の様なキリスト教(当時は未だ呼び名も無かった様だし・・)を迫害、殲滅の急先鋒の一人でした。

その当時としては、パウロの立ち居地は政府よりでしたので、迫害は当たり前の成り行きでした。

その人物がステパノの殉教後に、更に激しい迫害を進める為に印綬(黄門様の将に印籠みたいなもの)を受け、殺害を含めてもっと激しく取締りを進める旅路の最中にイエス様と霊的に出会ったのでした。

そこで、大いなる謎の一。

なぜ?神様とイエス様は三弟子や十二弟子や72人門徒らが居ながら、そんな
神様やイエス様から見てサタンの頭の様なパウロを招命したのでしょうか?

その事を今後数回に分けて、少しずつ解き明かして参りましょう。

では、先ずパウロの人類思想史に於ける最大の功績から・・

結論から御説明させて頂きます。

ここが凄いです。 いろいろと今日、分派の原因とか、霊的救いを重視しすぎとか・・

いろいろ言われますが・・・しかし、、

先ずはキリスト教(新約)の世界化はパウロの登場にて実現した。

と言えます。 この結論には、何人も異論は無いでしょう。

ここは凄いです。確かに!

以下はちょー有名なナショナルジオグラフィック書における旧約と新約の違いの記述からの引用です。 ご参考に!

「旧約」「新約」の「約」とは、神と人間とが結んだ契約という意味です。「旧約」「新約」という呼び方は、キリスト教徒から見た場合のものです。キリスト教徒は、イエスが救世主として神から使わされ、人類の罪をあがなうために処刑されることで、神と「新しい契約」を結んだと考えました。そして、それ以前の神との契約を「古い契約」と呼ぶようになったのです。現在では、キリスト教と同じく旧約聖書を聖典とするユダヤ教徒に配慮して、旧約聖書を「ヘブライ語聖書」、新約聖書を「ギリシア語聖書」と呼ぶこともあります。

 旧約とは、唯一神ヤハウェとイスラエルの民が結んだ契約のことです。イスラエルの民が神に忠誠を誓い、約束を守れば、神はイスラエルの民に祝福と恩恵を与えるというものです。しかし、神の意志に背くようなことがあれば、恐ろしい裁きが下されます。大洪水を起こして生き物を滅亡させたり、街に火の雨を降らせて滅ぼしたり、40年もの間砂漠を放浪させたり・・・・・・旧約の神は、厳格で恐ろしい神なのです。

 一方、新約の神は旧約の神とはずいぶん性格を異にします。神と人間とが結ぶ契約は、人間がイエスを神の子と信じるだけで、神から愛とゆるしを与えられるとされました。神と契約を結べるのも、イスラエルの民に限らず、イエスを信じる人すべてになりました世界中にキリスト教が広まった理由は、そこにあるのかもしれません。

以上にて・・

パウロの仕事は当時の一辺境の弱小民族の一カルト教だったイエス様の教えを、律法を知らない、更に割礼の無い異邦人(ユダヤ教からすると獣や家畜のようなケガワラシイ!)人々へ!
救いを劇的に拡大する使命を帯びていた!と言い切れるでしょう。

次回はその律法を知らないという事と、

無割礼という事の意味を考察しながら、

三弟子や十二弟子達がどうしても越えられなかった。

大きな厚い壁について書いて参ります。

ご期待ください。

 


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士規七則 吉田松陰


2012年を実りある年とすべく・・・


松蔭先生の遺訓に触れました。


長州ファイブ」(長州五傑とも・・)井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)らが


命がけ(見つかれば松蔭と同じく死刑の禁をおかして・・)でイギリス船にてイギリスへ密航!


その魂を松蔭の生き様とその精神に見ました。


日本の工業会・産業・政治の根底には、命がけの留学にて国の元にならんという、


若者の決死の精神が有った事に感じ入りました。


  









「士規七則」      
                                                        
冊子を披繙せば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。顧ふに人読まず。即し読むとも行はず。
(書物を開ければ、学ぶべき立派なことが山と載っていて、私達の心に訴えかけてくる。考えるに人は折角のその書を読まない。もし読んでもその得た知識を行動に表さない。)
苟に読みてこれを行はば、則ち千万世と雖も得て尽すべからず。
(事実、書を読み実践したならば、幾千万年にわたっても実践しつくす事はできないのである。)
噫、復た何をか言はん。然りと雖も知る所ありて、言はざる能はざる人の至情なり。
(ああ、ことさら言うことではなく、ただ実践すれば良いのである。しかし知っていたら、その事を言うのが人の情というものである。)
古人これを古に言ひ、今我れこれを今に言ふ。亦なんぞ傷まん、士規七則を作る。
(昔の人は昔なりに言い、私も私なりに言う。何を慮ることもない、よってここに士規七則をつくる。)

一、凡そ、生れて人たらば、よろしく人の禽獣に異るゆえんを知るべし。
   (人として生まれたならば、人が鳥や獣と違う所以をしらないといけない。)
   けだし人には五倫あり、しかして君臣父子を最も大なりと為す。
   (思うに人には五つの道理があり、その中でも君臣の関係・父子の関係が最も重要である。)
    故に人の人たるゆえんは忠孝を本となす。
   (であるから、人が人である所以は忠と孝を基本とする。)

一、凡そ、皇国に生れては、よろしくわが宇内に尊きゆえんを知るべし。
   (万世一系の天皇を頂く我が国に生まれたからには、我が国が天下において貴重な存在である事を知らねばならない。)
   けだし、皇朝は万葉統一にして、邦国の士夫世々禄位を襲ぐ。
   (思うに、我が国は万世一系の大君を頂き、諸国の武士がその身分を世襲している。)
   人君、民を養いて、もって祖業を続ぎ、臣民、君に忠してもって父志を継ぐ。
   (大名が人民を養い、元の生業を継承し、それぞれが忠義を行い、父の志を受け継いでいる。)
   君臣一体、忠孝一致、ただわが国をしかりとなす。
   (こうして、君臣一体、忠孝一致となる、これは我が国だけの特色といえる。)

一、士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。
   (武士の道において最も大切なのは義である。義は勇気に因って行動に移され、勇気は義を知ることにより大きく成長する。)

一、士の行は質実欺かざるをもって要となし、巧詐過を文るをもって恥となす。
   (武士の行いは、質素、実直、人を欺かない事が肝要である。人を欺き、自分を飾る事は恥とする。)
    光明正大、みなこれより出ず。
   (正しき道義を行い、身が潔白であることは、これらの理由からである。)

一、人、古今に通ぜず、聖賢を師とせずんば、すなわち鄙夫のみ。読書尚友は君子のことなり。
   (人間として古今の出来事に通ぜず、聖賢を師としない者は、心の貧しい人間である。書を読み、それらを友にすることは君子のなすべきことである)

一、徳を成し材を達するには、師恩友益多きにおり、故に君子は交遊を慎む。
   (徳を磨き優れた人間に達するには、恩師、友が多いことが条件であるから、君子は人との交流は慎重に行う。)

一、死して後やむの四字は言簡にして義広し、堅忍果決、確乎として抜くべからざるものは、これをおきて術なきなり。
   (死して後已むの四文字は言葉は簡単であるが意味は大きい、意思が堅固で忍耐強く、決断力があり、断固としてその志を変えない時は、これが最適の言葉である。)

右士規七則約して三端となす。
(この右記が士規七則であり、要約すると三つとなる。)
いわく「志を立ててもって万事の源となす。交を択びてもって仁義の行を輔く。書を読みてもって聖賢の訓をかんがふ」と、士まことにここに得ることあらば、またもって成人となすべし。
(即ち、「志を立てることを全ての始まりとする。交流する相手を選ぶことにより仁義の行為を学ぶ。書を読み先達の遺訓を学ぶ。」武士は、誠このような言葉から得るものがあり理解できなならば、完成された人とするべきである。)

                        二十一回猛士手録(吉田松陰先生の花押)
以上  日本の夜明けさんより転載にて・・

 
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【質実剛健】天下のトヨタの原点である豊田佐吉翁のモットーですが・・・
その豊田佐吉翁の精神的支えが『報徳思想』であったのは有名です。

その*『報徳思想』の完成の経緯をここに明示したく存じます。

江戸末期の当時,最高の賢人・経済人・思想家であり、

且つ成功者の代表と目されていた二宮尊徳であったが・・

7年間の桜町(農村改革事業)での歩みは尊徳の最大の挫折期
であったそうです。

しかし、43歳にて単身失踪までしたその期間は、
尊徳の報徳思想の完成期といわれている




艱難辛苦と神仏への帰依
が稀有の偉人「尊徳」たらしめたようだ。  

以下にて成田山にて神仏への祈願の件・・・


文政12年、先生43歳、この年の1月、豊田正作などの妨害で桜町の仕法が進まなくなった。

先生は1月4日、江戸に出たきり、数十日間、所在が不明となる。

3月中旬ようやく先生が成田山で断食祈願していることが知られた。

4月8日に祈願が満願に達し、ようやく桜町陣屋に戻った。

この後、仕法が順調に行われるようになる。



報徳記には「下総国(千葉県)成田山におもむき、21日間断食して、
上は大久保忠真候の心を安んじ、下は百姓を救うことを祈願し、
毎日数回水を浴びて身体を清浄にして、昼夜怠りなく祈念した。

21日目の満願の日にその真心が御仏に通じ、大願成就の霊験を得られたという。
しかし、尊徳先生は生涯このことを言わなかったので、
人々はその詳細を知らなかった」とある。

この間の事情について、調べたのが先生晩年の弟子、岡田淡山で
「二宮先生の七大誓願」という著がある。



○文政12年3月先生祈願のことあり。
 
千葉県の成田山に参篭して断食し祈願して21日にして感応があった。

物井の村中の人々はこぞってその過ちを悔いて、
先生を出迎え、先生の教えにそむくことはないと誓った。
 
私(岡田淡山)はかって先生の旧跡を尋ねて諸国を歴訪し、
千葉の成田山新勝寺に参詣した。
そして、ある僧侶に面会することができ、
親しく先生が断食祈願した当時のことを聞くことができた。

○はじめ、先生は成田山の門前の小川屋(先生が参篭された当時は「佐久良屋」といい、現在は信徒会館となっており、
先生がここに泊まられた旨の立て札が立っている)に来てこう言った。

「余は心願のことがあって、成田山に断食祈誓しようと欲する者だ。

宿を借りたい」
宿の主は「どうぞ」といったん諾したが、

先生の容貌がただならぬことをいぶかって、住所と氏名を聞いた。

「余は小田原藩士である」と先生は答え、持ち金を預けようとした。

主は容貌がはなはだ立派なのに、衣服はひどく粗末、
しかも大金を持っていることに驚いて、
やっかいな事にまきこまれてはかなわないと思い、

宿に泊めるのを断ろうとした。

すると先生は大声で叱り飛ばして言った。

「いったん諾した後で断るとはなにごとか。
 
余は心願があってここに来たって参篭しようとする者である。
 
いったい何を疑おうとするのか」
その目の光は人を射るほどであった。

主は恐れおののいて先生に謝って、宿泊させたが、安心できないため、
江戸の小田原藩邸に人をやって確かめさせた。

小田原藩邸の者は、「二宮は確かにわが藩の者で疑うべき者ではない。
また、二宮は尋常の者ではないから、決して軽々しく扱ってはならんぞ。」
と告げた。

当時、大久保候は老中であって、その声望は天下に鳴り響いていた。

その使いの報告を聞いて、宿の主はいったんは安心したものの、
さきに尊徳先生の怒りをかったことを恐れて、新勝寺の和尚にこれまでのことを相談し、とりなしをお願いした。
 
当時の住職の名前を照胤(しょういん)といった。
非常に学識があった。

主の請いを受けて、二宮先生のもとに至って、主の失言をわびた。

先生はにっこりとほほえまれて少しも気にしていないと丁寧に答えられた。



「あなたの心のひろいことは宿にとって幸いである。
 
しかし、この宿は大変出入りが激しく、数日の参篭の間、はなはだ静座するのに妨げであろう。本寺に別寮がある。
どうじゃな、そちらに移られて静かに修行されては」と和尚は先生に言われ、
先生は喜んでその言葉を受け入れた。



○先生は、新勝寺の別寮に移られて、日々朝から晩まで水を浴び、
お経を唱え、祈念怠ることがなかった。
和尚は、間を見て、二宮先生に問うた。

「世に当山に祈願するものを見るに、あるいは自らの病気を治すため、
あるいは貧乏を免れようとし、あるいは栄華や利益を願うためにし、
あるいは愛欲をみたさんと願い、おおよそその私情私利の欲念のために祈願しないものはない。
 
今、私があなたを見るに健康で病気でもない。
衣服は粗末だが、貧乏を憂えてのことでもない、
栄華利欲を祈るものでもない。
言語もしっかりしており、とても危うい道を踏み行って災難に遭遇するとも思えない。
心ひろくまっすぐで欲念や怒りをはらすためでもない。
 
そもそも何を祈願することがあって、特に当山に来て、食事を絶ち、
身を苦しめようとするのか」


 
先生はこうおっしゃった。

「わたしは病気があるわけでもない。
 しかしながら幼くして父母の病気にあって不幸にしてはやく父母をなくしてみなしごとなった。
その不幸はいかほどか。

 思うに天下に私と不幸を同じくするものが少なくないことを知るゆえに、
天下の人の父母たるものが無病健全で子どもが安心して生育できるよう祈願するものである。


 
私は今貧乏を憂えるものではない。
しかし、極貧の家に成長し、父母の艱難は言葉に尽くしがたいものであった。世の中で貧乏より悲しいものはないということを知った。
 
ここをもって天下の貧者をみては、あまねくこれを救済して富者になさしめることを祈願するものである。


 
私が生まれた年、天明の大飢饉であった。
死者は何万人いたかわからないほど多かった。
関東の諸州の死亡がもっとも多く、栃木の芳賀郡の村々が廃亡したのもこの時であると聞いている。
 
今、ここの開墾の任務にあたり、飢饉の害ほど大きいものはないことを知る。
60年前後に必ず凶荒のときがあると聞いている。
あらかじめその備えをなして、天下に飢えた民がないことを祈願するものである。


 
私は幼いとき、しばしば洪水にあい、所持の田畑は再三押し流された。
その開墾のため、父母の苦労は筆舌につくしがたいものであった。
元通りにしようとしても、容易には良田になしえず、数年の労力でやっと復旧しても、このために負債を生じて所有地を売り払うこととなった。
一家滅亡したものも我が家だけではない。
だから天下の水害をこうむって滅亡にいたるものを救助すること、
私が自ら我が家をたてなおしたようにならんことを祈願するものである。



 天下にはさまざまな災厄をこうむって、借財を生じて、利息が累増し、
元利を償還することができず、家財産を失い、逃亡する者も少なくない。
あるいは家老の職にあってぜいたくになれて、負債のため職務を全うできず、厳しく重税をとりたてて国家危急にいたるものも少なくない。

 私はこれがために方法を設け、救い取ろうと祈願する。


 
要をもって言えば、禍を転じて福となし、凶を転じて吉となし、
借財を変じて無借となし、荒蕪を変じて開田となし、
やせ地を変じて肥沃の地となし、衰貧を変じて富栄となし、
困窮を変じて安楽となし、おおよそ人民のにくむところを除いて好むところを与えようと日々夜々に祈願するところなり


 
わたしは君命を受けて、物井村にいたってよりここに七年、
着々これを実地に施した。

しかしながら、民心はいまだにこれを理解せず、土地が開け、
人民は豊かになってきて、しかも人心は喜ばず、かえって反抗をこころみ、
よこしまな者どもは威力をたくましくして、
良民はその志をのべることができない。
 
すでに人民の困窮を変じて安楽の道をあたえ、すでに人民の貧を変じて富み栄させ、すでにやせ地を変じて開田とし、借財を幾度となく無借としてきた。
しかしながら、人心の凶を変じて吉とすることがなしがたく、
国家の禍を福とすることができない。
 どういう理由か、
これは人民が私の誠に疑惑があるためである。

私は君命のために国家を復旧の道をたて、
民を水火に救おうと欲するだけである。

天地神明いやしくもこの誠心を真実とせなければ、死ぬとも食をとらず、
民を水火から救うことができなければ、この身を猛火になげすてよう。


 これが当山に来て祈誓するゆえんである」


 和尚はその誓願に感嘆し、

「あなたの誓願はまさに世を救う法であり、
世間の教えの及ぶところではない。
 
よくその誓願をたもって動くことがないならば、
いかなる天魔や悪鬼の妨げるものあるもついにはどうすることもできないだろう。」
 そして不動経を与えた。
先生はこの不動経を受持し、朝夕昼夜怠ることなく、毎時ごとに沐浴し、
不動尊の前に礼拝し、誓願を唱えた。
 
そして、実に21日目に感応があり
次の歌をよんだ。


 
身を捨ててここをせんどとつとむれば 月日の数もしらぬなりけり


 心あれば成田の山にこもりなん 石の上にも岩の上にも




☆「二宮尊徳伝」(佐々井信太郎)より


先生の成田山参籠は、報徳仕法の根元を解明することにおいて極めて重要なことである。

以下省略・・・・。 以上Gaiaさまのブログより・・・
 
二宮尊徳像






成田山新勝寺








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希望の春がやって参りました♪

やっと本年の桜前線の始まりが昨日(24日)発表されました♪

九州宮崎と静岡にて・・・

ところで桜のシーズンと言えば新入学式ですね。

ぴかぴかの新一年生をはじめ

希望と決意を胸に清清しい出発の時ですね。

何処の学校でも、企業や団体でも、

華々しい門出へはなむけに
 
応援歌や応援団のエールは風物ですが・・・

今回は東大(東京大学)の応援団(応援部の)にスポットを当てさせて頂きます。

で、日本をリードして来たエリート教育のトップ。

東京大学についてご参考までに、お付き合いくださいませ

: 敗戦(第二次世界大戦の)により旧帝国大学群(九帝大と呼ばれていた)は

旧制高校を含め、敗戦国として責任故に前面解体再編の憂き目を負いました。

それは、エリートの教育の解体を意味しています。

当時のエリート教育は例えて松下村塾のごとく世界一の識字率と精神性で

幕末から明治にて・・

そうそうたる世界の列強を震撼させ、忠義孝徳碩学にて完成の域にあったと言えます。

そんな世界最高域にあった教育界は解体抹殺さられてしいました。・・・

その背景を基に現在の教育界は・・・

生徒の熟成を無視し即製を旨として

落第を一方的に悪と決め付け、かえって落ちこぼれと登校拒否児とを大量生産し

無意味な形だけの模倣たる、6・3・3・4性を採用し

日教組と無神論唯物教育にて、

エゴや権利意識ばかりを肥大させる欲望の奴隷層を大量生産させ

戦後65年を経てもますます増長した教育がはびこって今日に至っています・・・。

そんな中・・ 旧帝国大学の第一号「 東京大学 」の応援団に旧帝国大学の気概(精神)の伝統が残っているようです♡

真のエリートとは? 知性のみならず、気概(精神性)であり、

試合(あらゆるスポーツ)の敗北を全て

応援の至らなさである!と断言し!

『自分の至らなさであると、更に精進する。』

(※東大の運動部は年間を通じて一勝も出来ないことが多々あるため

試合後は、その責任を応援団員が全て受け止め、

そのため凄まじい訓練が繰り返されます。

 自ずと東大応援部は

日本一の苛烈な自省と訓練の場
となっているのです  (^^ゞ。)

そんな、すさまじい応援の精神は、

現代にもまだ息づく「武士道」精神であると深く感じ入りました。

不思議と校歌の未だ無い東京大学ですが、応援歌がその精神をつたえています。

それでは、その独特の我日本の頂点たる!

その二つとない独特な世界をご覧あれ!

最初の3動画は、選手が優勝したときだけ演じられる「勝利の拍手

※歌舞伎の大見得から取り入れた至上の演舞!

(殆ど優勝できない東大のため、幻の演舞となっています。)

4番目からは東大の応援歌「ただひとつ」校歌代わりに歌われているそうです・・。

※最近は冷めた学生が多いため、率先して死力を振り絞り歌う団員たち、
     
       奇異に見えますが・・青春を賭したその姿を・・・



参考:旧帝国大学(九帝大)

1886年 明治19年 帝国大学(東京帝国大学) 
1897年 明治30年 京都帝国大学 
1907年 明治40年 東北帝国大学 
1911年 明治44年 九州帝国大学 
1918年 大正7年 北海道帝国大学 
1924年 大正13年 京城帝国大学  建物等はソウル大学校に引継 
1928年 昭和3年 台北帝国大学  台湾大学の設立母体 
1931年 昭和6年 大阪帝国大学 
1939年 昭和14年 名古屋帝国大学 

※侵略と収奪を欲しいままにした、といわれていますが・・

実際は、日本人民の手でりっぱな帝国大学を彼の地に、

つくり、それが今日の超名門といわれる、ソウル大学と台湾大学になっています。

大阪大学や名古屋大学より先に彼の地を優先した。

そんな先人たちに一方的な汚名を着せるのは・・・

誠に歴史を知らない無知な空論にすぎません。

参考リンク:東大応援団

第37回淡青祭はリンクをご覧ください←クリック!






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過ぎ去りし昭和のかおり・・

不器用だったが

なにかしら一途で・・

禁欲的で・・・

   自分を押し殺して・・

  そんなんが、かっこよく思えてました。

考えて見れば、今は欲望を吐き出すような・・・汗・・

  ストレートと言えば聞こえはいいですが・・

相手を思いやり、相手の立場を考える事を忘れているみたいな・・

  露(あらわ)な欲望なんか・・・    恥ずかしく感じます。 古い小生には・・・

そんな古い小生の、聞くたびに何故かジーンと来る。

 ♪ 《 つらいだけが初恋! 乙女のワルツ ♪》

出だしが強烈で・・ しかし、そこをドカンと!

『つらいだけの・・』と断定的にぶつけて来る♪

  そう!そうなんだ!と、うならせる♪

  将に青春その物!(凄春という表記もする人もいたな・・・)

その詩ちからというか

  真実(現実)の力強さも感じ入ります。

 では ♪

昭和の珠玉の名曲! 『乙女のワルツ』 ♪をどうぞ!

伊藤咲子さんです。 ※二曲連続です・・・ 『ひまわり娘』



今は亡き 名作詞家 阿久悠さんの作詞。 ドラマチックなオペラ調の出だしと、伊藤咲子さんの一途で濁りのない名唱。 ワルツテンポが優雅さと儚さを湛え・・・詩が片思いと別離という青春の一ページを感動的に歌い上げます。

※ボーナス 3曲目はやまがたすみこさんの 『風に吹かれていこう』です。 小生のいとこ達の世代ですね。ちと、先輩かな・・・


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