「だから軍師どの、窓から入ってくるのはやめてください」
「おまえが俺を軍師と呼ばなくなったら考えよう」
 たぶん考えるだけ考えてやめないだろう。

「やっと漕ぎ着けたな」
「まったくです。
 初恋からいったい何年かかっているのやら。
 十九年ですよ、十九年!」

 生まれたばかりの赤ん坊が成人してしまう年月だ。
 呆れてしまう。

「奥手な二人じゃ遅いのもしかたないだろう。
 あぁ、出産おめでとう」
 露台の手すりに座った青年は、いったいどこから聞きつけてきたのか知らないが、祝いの言葉をくれた。

「ありがとうございます。
 手は出さないでください」
「娘か。
 十五年くらいしたら見物に来るよ」
 なんてひどい男だろう。

 三児の父となった宰相ウォーレンは、事務机の上を片付けながら歯軋りしたい気分だ。
 初めての娘で興奮している父親に対して、今の台詞は火のはいった竈に口付けるようなものだ。

「あなたにはご予定はないのですか?
 いつまでもフラフラしているわけにもいかないでしょう」
「今のところ再婚の予定はないな。
 子育てで精一杯だ」
「そうですか。
 お大事に」
「あぁ」

「……………………。
 今なんて言いました?」
「あぁ」
「いえ、その前です」
 お約束な返答に負けず再度尋ねる。
「子育てで精一杯」
「…………あの、その前もお願いします」
「再婚の予定はない?」

「ご…………………………ご結婚、されていたんですか……」
 相手はどんな女神のような人だろう。
 きっと慈悲の塊でできたような女性なのだろう。

「したいって言うからした」
 今日の夕飯は豚の丸焼きがいい、というのと大差ない言い方だった。
 なんてお手軽な人なんだろう。



「指輪」
「…………はい」

 予定通りというべきか、聖女は父からの家紋指輪は受け取らなかった。
 大切なものは貰ったからといって、聖女の騎士に返したという。
 その聖女の騎士から、グロバー国王姉が形見にほしがっているといって、ウォーレンは家紋指輪を預かった。

 王姉のことは本当らしく、聖女の騎士は「そうでしたね」と納得したようだった。
 だが、それをどうしてこの青年が知っているのかウォーレンにはわからない。



 家紋指輪を受け取るとそれを無造作に懐にしまい、青年は手すりから降りた。
 青年のほうがほんの少しだけ背が高く、痩せて見える。
 だがその腕がしなやかに剣を振るうのをウォーレンは知っていた。

「お城の庭は、そのままにしておいてくださるそうです」
 手すりに体をもたせ、遠くの空まで見ようと目を凝らした。
 細い月の明かりでは自分の家の庭先も見えない。

「そうか。
 礼をしないとな」
「魔法で石像を動かしてご覧にいれたらどうです?
 ……………………本気にしないでください」
 彼なら本当にやりかねないのでやめた。

「約束するよ。
 俺がいて、マリーの意志が消えないかぎり、シュワルド国が在ることを」
「──────」

 それは、どれだけの時間を表すものなのだろうか。

 聖女の思いは多くの人々の心に根付いている。
 親がそれを子に話し、子が孫に話し、孫がひ孫に……そうして長い時間、聖女の思いは語り継がれ、受け継がれていくだろう。
 それほどの時間のかかる約束ができるほど、彼は生き続けるというのだろうか。

 尋ねてみたいけれど、きっとはぐらかされるだろう。
 青年はいつだって突然やってきては好きなことをして、いつのまにか消えてしまうのだ。

 あの時のように。


 グロバー国から報せが届いた。
 王公爵であるコレッタ王女の婚儀の招待状。
 読み上げられた内容を聞いて二人は視線を合わせ、慌ててそらした。

 自分の出生が気にかかり、マリーナは結婚したいという気持ちを持たないようにしていた。
 それが顔に出ることが怖かった。
 クラウスはきっと困るだろうから。

 執務室に戻っても、クラウスの顔を見ることが、いつもより難しかった。
 昼食には子女たちに囲まれ、二人きりになることはなかった。



 夕食までのほんの短い時間。
 無理やり、大臣が追い出された。
「……クラウス?」

 追い出された大臣に謝罪の言葉を向け、クラウスは扉を閉めた。
 しばらく、その大きな背中を見つめることになった。

 もう一度、呼びかけた。
 クラウスが振り返る。

「姫……。
 お話があります」
「今か?」
「今、です」
 真剣な眼差しに、筆を置く。

 大切な話なのだ。
 真剣に受け止めなければと思った。
「話せ」

 クラウスは懐から、小さな指輪を差し出して見せた。





 その日は夜になって寝る用意ができても眠れず、窓辺で一人、月を見上げていた。

 まん丸までもう少しとなった月は金色に輝いて見える。
 まるでフォスターの眼のようだと思うと、胸の奥で哀しさがジンと沸いた。

(もう寝ないと)
 明日は婚儀の贈り物を選ばなければならない。
 友人の初めての結婚だから、何を贈って良いのかわからないが、きっと良いものが見つかるだろう。

 窓に背を向けて離れようとしたとき、月光が動いて絨毯に人影を作った。

 驚いて振り向くと、そこには月の光が人の姿をとっていた。
 目を凝らすと月明かりに照らされているだけだったが、そのときの彼は本当に神々しかった。

「……フォスター」

「まだ寝ていなかったのか」
「ゆめ、か?」
 昔のままの金色の瞳が微笑む。
「もちろん、夢だ」
「……そうか。夢か」

 哀しかったが、嬉しくもあった。
 行方不明になってから彼のことは夢でさえ会えなかったから。
 やっと会うことができた。

「シルヴィアは元気か?」
「蝶みたいに飛び回っているよ」
「本当に?」
 口では信じられないと言うが、確かにシルヴィアならどこへでも飛んでいきそうだ。



 あれは和平が終結され、マリーナたちが安堵したときだった。

 シルヴィアは二人だけの静かな露台に立って、きれいな金髪を風になびかせていた。
 聖女の友人、騎士の命の恩人として丁重にもてなされる彼女はしかし、重たいドレスを嫌って侍女のような服でいた。

 長い沈黙。

 たった一言『帰る』という言葉が言えなくて、たくさんの涙を流してくれた。

『ごめんなさい、姫様』

 ありがとうと、マリーナは何度も言った。

 大切な人の死を圧してまで自分のそばにいてくれたことに心から感謝した。
 言葉が軽すぎて足りず、抱き合って泣いた。


『ありがとう』





「マリー?」

「……明日、コリィ様への贈り物を選ぶんだ。
 コリィ様、ご結婚されるんだ。
 どんなものがいいかな?」

「自分が贈りたいものを選べばいい」
 クラウスと同じ答えを返され、マリーナは頬を膨らませた。
 そんな答えでは参考にならないのだ。

「そうだな。
 手鏡とか櫛とか、身につけるもの以外の、毎日目に付くものがいいんじゃないのか?」

「どうして身に付けるものはいけないんだ?」
「それを贈りたいやつが他にいるから」
「……ふーん」

「マリーは何を貰って嬉しい?」
「そうだな……」

 町の子どもたちに花を貰ったり、店先から果物をくれる人もいて、そんなときは嬉しいと思う。
 グロバー国王姉からの贈り物も素晴らしいものばかりで、その細やかな気遣いは嬉しかった。

 その中でも一番嬉しいと思うものといえば、一つしかない。
「花、かな」

 毎朝一輪、クラウスが欠かさず食卓に飾ってくれる花。
 季節の野の花から花壇で丹念に育てられた花と、いろんな花をくれる。
 毎日それが一番の楽しみでもある。

「王公爵邸の庭は花園と呼ばれるそうだ。
 植木でも贈ったらどうだ?」
「そう、か。
 うん、それはいいな」

 まだ見たこともない父の家。
 たぶん一生足を踏み入れることもないだろう、故郷になるはずだった家。



「……フォスター」
「ん?」
「父は、……どうして、わたしを、手放したんだろう?」
 マリーナは胸を押さえた。

 服の下には飾り気のない指輪がひとつ、紐に通され首にかけられて下がっている。

『姫。
 あなたは、グロバー国の、王公爵家の姫君です。
 この指輪は、あなただけが持つことを許されている』

 夕食までのほんの短い時間にクラウスが教えてくれた。
 実父が誰であるのか。

 そのときに手渡された指輪は、混乱して投げつけることろだった。
 ひんやりと冷たいばかりで、なんの記憶も呼び起こさない。



「手放した……か。
 おまえはそう思っているのか?」
「違うのか?」
 不安そうに尋ね返したマリーナを見て、彼はかすかに微笑んだ。

「マリー。
 自分の名前を言ってみろ」
「……マリーナ?
 マリーナ・ウィリアナ」

「女だったら母親の名前を、男だったら父親の名前をつけようって約束したらしい。
 でも……欲張ったんだな。
 二つとも付けて」

 くすくすと、笑い声。
「え? あの、フォスター、で、でも」
「ウィリアナの男名は?」
「え? あ、ウィリ……ア、ム…………?」

 先代王公爵の名は確か、ウィリアム・ボリス。



 女の子だったらマリーナ、男の子だったらウィリアムと名付けようと約束したんだ。

 でも、あんまりかわいくてね。
 どちらかなんて選べなかった。

 男の子が生まれていたら、ウィリアム・マリンなんて付けていたんじゃないかな。



「───なんていう親が、簡単におまえを手放したと思うか?」
「…………」
「……マリー?」

 すぐに嗚咽が喉に絡んだ。
 大粒の涙が頬を伝って落ちていくのに、拭いもせずに彼を見つめる。



 尋ねたいことがたくさんある。
 わからないことが日々増えていく。

 哀しいことも、嬉しいこともあるのに。
 毎日が新しい発見の繰り返しなのに。
 なぜ自分は愛されていることには気づかないのだろう。

 父親だと思っていた人はただの伯父で。
 病弱だった母は自分を産んですぐに亡くなり。
 本当の父は……。

 愛してくれていたのだと。
 人に言ってもらわなければわからない。



 一度も会ったことのない父は、生まれた我が子を見てかわいいと思ってくれた。
 それだけで胸がいっぱいになる。
 嬉しいと思う。

 それを教えてくれた人が涙で見えなくなるくらい、一度も父と呼べなかったことが惜しい。



「マリーナ」
 涙を拭う指先はひんやりと冷たく、マリーナの頬を冷やした。

「一緒に暮らした時間は短かったかもしれない。
 おまえは覚えていないかもしれない。
 それでも、両親が、おまえが生まれたことをとても喜んだことだけ、覚えておいてほしい」

 マリーナはうなずいた。

 このことは一生忘れないだろう。
 生きているかぎり、この命が生まれた瞬間に愛されたことを忘れない。



「マリーナ」
 優しい声がする。
 耳の奥にじんと響く音。

 髪を撫でられ、耳の形をなぞられる。
 ふっ、と温かいものが頬に触れた。
 間近でみるフォスターの顔はいつまでも美しいと思った。

 途端。

「ん」

 接吻された。

 驚いて悲鳴をあげようと口を開くと、何かが口の中に転がり込み、おもわずゴクンと飲み込んだ。



「いっっ、いや─────────!」



 がしゃーん、と音がした。

 慌てて起き上がったマリーナはドキドキと痛いほど脈打つ胸を押さえ、生々しい感触を残す唇に触れた。
 とてつもなくものすごいことをされたような気がする。

「陛下、どうなされました!」
 侍女が駆け寄ってきた。

 マリーナは寝台にいた。
 いくつもある広い部屋のひとつ。
 見慣れた豪華な寝室。

 朝陽が眩しい。

(ゆめ……)

 ではこの生々しすぎる感触のあとは何?
 口腔に感じられる蜜のような甘いものは……。



 まだ胸が苦しい。

「あの……陛下?
 どうかなされましたか?
 おかげんでも……」
 侍女の心配げな声が聞こえ、マリーナは彼女を振り返った。

「く……………………」
「はい?」

「ク……クラウス──────!!」

 女主人の絶叫は、控え室も飛び越えて廊下まで響いた。

 慌てて駆けつけた騎士クラウスは控え室で割れた花瓶のそばでおろおろとする侍女を見つけたが後回しにし、一瞬の躊躇いもなく女主人の寝室へと駆け込んだ。
「姫、どうなさいました!?」

 寝台の上に座ったままのマリーナは、クラウスの声に泣き出しそうな顔を振り向けた。
 大きな手がマリーナの肩を抱き、胸を抑える手にもう片手が添えられる。

「く、く、く、く、……フ、フ、フォ、フォフォ……フ、キ、く、ち…………」
「は……はい?」
 動揺するマリーナは巧く伝えられないことにさらに混乱した。
 言葉の代わりにクラウスの手を掴み、大胆にも自分から抱きついた。

 クラウスも男である。
 大いに動揺した。
「……………………ひ、ひ、め?」

 マリーナは泣き出した。

 鍛えられた胸に柔らかいものが押し当てられ、クラウスは動揺と混乱を一緒に味わう羽目になる。
 愛する人の柔らかな肉体が薄い布一枚向こうにあるなんて、騎士道精神を捨てたくなった。

「……………………っ」

 だがやはり、捨てられなかった。
 清々しい朝の空気と背後からの侍女の視線が彼の理性を引きとめたのだ。

 男は忍耐、と戒める。



 この朝の騒動は本人とその騎士、有能な侍女と宰相の胸に納められるだけとなる。





 その年、シュワルド国女王の婚約が急に取り決められ、さらに性急に婚儀の予定が組まれた。
 日程はなんとコレッタ王女よりも早い。
 周囲がどれほどこのときを待ち侘び、それ来たとばかりに飛びついたのかがわかる。

 お相手は、周囲にとってはいまさらな、聖女の騎士クラウス・エメールである。

 婚約発表に駆けつける領主たち、近国の使者。
 もちろんそのなかに、女王の友人であるグロバー国のコレッタ王女の姿もあった。
 弟国アインス王は何があったのかやせ細った姿で現れ、長々とした祝辞を口にした。

 王族自らが祝いに来てくれたのはこの二国だけである。
 それだけで三国の強い結びつきが周囲に印象付けられた。

 その背後で何かが起こっていただなんて、誰も知らない。


 またか、と宰相はため息した。

 上質の紙で作られた手紙が一通、シュワルド国王宛てにきている。
 中身は何なのかもうわかっていた。
 これで七三通目なのだ。

 いつまで続くのか誰かと賭けをしてみようと思ったこともあるが、相手が相手なのでやめておいた。
 差出人は、あのアインス国王なのだ。

 記憶のかぎり、最初は去年の春にきた。
 文通でもなさるのだろうと軽く考えていたが、ある日、中身が恋文であり、返答に困っているとシュワルド国王から相談されて以来、今日まで数えてきた。

 王同士の文通のほうがどれだけ良かったことだろう。

 七三通。
 アインス国王の筆忠実さに感動する。

「宰相様。
 こちらの書類は、河川監督官殿にお届けしてもよろしいでしょうか?」
 補佐の言葉に我に返り、宰相はほかにも用を言いつけて、三人の補佐を執務室から追い出した。



 爽やかな風の吹く頃で、窓の外を見ると、収穫の時期を追えた田畑の緑と土色の絨毯が美しい。
 次の収穫期がくればまた模様が変わるだろう。

 首都の北側から東にかけての土地は肥えており、年に数度の収穫が可能だった。
 食物によっては五度六度と収穫できるが、同じ田畑から年三度以上の収穫は禁止されている。

 戦で傷ついたのは人だけではないのだ。
 土地も休ませてやらなければならない。



 手紙を見て、宰相はため息した。

 どうお返事すれば良いのだろうか。
 恋文が自身宛てのものであったら(そして自身が女であったら)こっぴどく振るところだが、そうもいかない。
 差出人はアインス国王で、シュワルド国王宛てにきているのだ。

 アインス国王は三十代半ばと脂ののった歳で、誠実で向上心もあり、再興のために精力的に執務をこなしている。
 シュワルド国王は二十代前半で、高い身分にありながらもまだ結婚のけの字もない。

(彼が悪い)
 宰相は決めつけた。
 彼とは、聖女の騎士クラウスのことである。

 誰が見ても恋人としか思えない二人は、未だ主従の立場にある。
 愛情溢れる主従といえば思えなくもないが、二人が見つめあう姿はどうがんばって言い繕っても相思相愛の恋人同士だ。

 いったい何を遠慮しているのか宰相にはわからない。

 もう一度ため息をついたとき、露台で物音がした。
 いつの間にか露台の手すりに人が座っている。

「珍しいですな。
 日光浴ですか」
「たまにはな。
 ため息なんかついてどうした?」
「また、恋文です」
「まだなのか、あの二人」

 呆れた声が返ってきた。
 宰相は呆れるのを通り越して怒りたいくらいだ。

「世話焼きババアなんていないのか?」
「陛下にですか?
 恐れ多いとみな近づきません。
 クラウス殿に噛みつかれます」
「そのわりに手は出していない、と」

「家のことは問題ないとあなたが言われるので、放っておいたのですが……」
 シュワルド国王がグロバー国王家に連なる姫君であることは前に聞いていた。
 あのモーガン将軍から。

『わたしは騎士に取り立てられてすぐに、ある姫君に仕えました。
 姫君のご夫君は、賢明グロバー国王の叔父にあたられる、ウィリアム卿です』
 それがシュワルド国王の両親だというのだ。

 その後に続く話も御伽噺のようにおもしろ……いや、国王の生い立ちの難しさに唸った。

 もしこれが、露台の人の口から聞かされたらのなら、今度はどんな罠を仕掛けているのだろうかと適当に相槌を打っていただろう。
 しかしモーガン将軍から聞かされたのでは信じないわけには行かない。



 困ったことだ、と二人は思った。
「危機感がなさ過ぎるんだ。
 コレッタ王女の結婚は決まったのにな」

「決まったのですか?
 やはり、ワイトリー国の?」
 露台の人がうなずいた。



 アインス国との締結式の際、グロバー国から使者としてやってきたのは、愛らしいコレッタ王女だった。
 当時はまだ十一歳だったが、はきはきとした口調の賢い姫だ。

 使者の幼さに憤慨した者もいたが、次期王公爵だとわかると、その肩書きは使者として充分だと誰もがうなずいた。
 今では国王の友人として手紙のやり取りをしている。



「王子としての地位はどうなされるのでしょうか?」
「ワイトリー国王家の男子は、嫡子が王座につくと同時に臣籍に下る。
 結局王族でなくなるのなら、他国の王女に婿入りしても問題ないそうだ」

「王公爵夫君ですか。
 小国の王子ならある意味、出世したともいえますね」
「これで問題はなくなったはずなんだけどな」
 ポツリと呟かれた言葉に、訳を知る数少ない一人である宰相はうなずいた。



 シュワルド国女王となった聖女マリーナは、グロバー国の前王公爵を父に、旧シュワルド国ロイズ子爵家の三の姫を母に持つ。
 本来ならばグロバー国の大貴族の娘として育つはずが、父親が誰であるのかの印を持っていないため証拠がなく、空いた王公爵の席はコレッタ王女に授位された。

 これでマリーナが前王公爵の姫として帰国する必要はなくなった。
 彼女はシュワルド国の女王で、聖女なのだ。



「その知らせはいつごろ届きますか?」
「明後日かな」
 不思議なことに、露台の人は常に最新情報を持っている。
 どこで手に入れたのかは教えてくれない。

「がんばってくださると良いのですが」
「脅してみたらどうだ?
 アインス国王との見合いの席でも設けてみろ」
「実現する前に斬り殺されます」
「おまえを斬り殺すくらいなら、マリーを押し倒せばいいのに」
 それができれば周囲がこれほどやきもきする必要もなかった。

「そうだ。
 今日は、頼みがあったんだ」
「なんでしょうか?」

「マリーがアレを受け取らなかったら、おまえが預かっておいてくれ。
 あとで貰いにくるから」
「アレというのは、家紋指輪のことですか。
 どういいわけしてお預かりすればいいんです?」
「適当に」
「また、そんなことを」

 無理難題を申し付けた人は手すりから降りて部屋にはいり、宰相に耳を貸すように言った。
 わざわざ二人だけの室内で何なのだろうかと思いながらも律儀に耳を貸す。
「──────」

 言い訳の方法を聞いて、宰相は目を丸くした。
 小さな目を目一杯ひらいて目の前の青年を見つめる。
 彼はにやりと笑った。

「な…………わかりました」
 その後の家紋指輪の扱いが気になるが、尋ねて素直に教えてくれる相手ではない。

「あとは何かありませんか?」
「いや。
 ……あぁ、もうひとつ、頼み事がある。
 庭なんだが、そのままにしておいてくれないか?」

「城の庭のことですか?
 そのままといっても、手入れが行き届いていないだけです」

 中立地帯であった首都は新シュワルド国に譲渡され、首都として扱われている。
 侵略による被害は少なかったが、無人だった城は荒れ、町の再興を最優先にしている今は庭も雑草が生えるのに任せている。
 石像は苔むし、木には蔦が絡みつき、庭の東側には使用目的のわからない小屋があった。

 そのままということは、荒れ放題のほうがよいということだろうか。

「来客があったときは困ります。
 あんなものをコレッタ王女にお見せしまいと、我々がどれだけ苦心し……」

「…………」

「………………」

「……………………」

「…………。
 わかりました。
 陛下にご相談してみましょう」
 結局いつもどおり宰相が折れるしかなかった。

 それに、彼のこんな頼み事は珍しい。
 いつもシュワルド国に有利なことをしでかしてくれるばかりで、何も求めないのだ。
 庭の一つや二つ多少荒れていようが、それで借りが返せるなら安いものだ。

 ため息をつこうとした途端、窓から風が入ってきて山積みの書類を吹き飛ばした。
 慌てて重石をおいて飛んだ書類を捕まえた。

 振り返ると、いつのまにか、青年はいなくなっていた。
「…………」

 開けられたままの窓を閉めようとしたとき、補佐たちが戻ってきた。

 彼ら三人は、ついさっきまでここにいた青年のことをどれだけ知っているのだろう。
 戦時中は近くで見ることすらなかったのではないだろうか。



「片付けが終わったら休憩しなさい。
 わたしは聖女の騎士どののところへ行く」
 補佐たちは礼儀正しく頭を下げ、上司を見送った。

 宰相は護衛を引き連れながら廊下を歩き、さっき聞いたことを反芻した。
 一つ一つの言葉を頭のなかに織り込むように組み合わせ、記憶を確かなものにしておく。
 いつか何かの役に立つこともある。
 あの青年は口も態度も悪いが、頭脳は明晰だ。



 行く先の向こうに、美しい一行が見えた。
「これは、陛下。
 お会いできて良かった」

 宰相が呼び止めたことの詫びを言うと、貴婦人は青い瞳を微笑ませた。

 今日も美しい栗色の髪を気難しく結い上げ、唇には薄く紅を塗っている。
 あまり化粧を好まない人だ。
 無用な飾りのない、瑞々しい美しさをもつ女王、マリーナ。

「実はご相談があるのです。
 ……ご不快かとは思われますが、城の庭をそのままにしておいてはいただけませんでしょうか?」

「庭をそのままにですか?
 ですが、ウォーレン宰相殿、あまりに荒れると……」
「それは重々承知しております。

 しかしながら陛下……実を言いますと、彼の故郷が森にあると聞いたことがあるのです。
 城の庭が森のように緑豊かになれば、彼も心安らかになるのではないか、せめてもの慰めに、と……いえ、わたくしめの浅慮な考えでございます、陛下。

 ご無理を承知で申しました。
 お詫び申し上げます。
 なにとぞ、お許しを」

 女王の瞳が潤んだのに気づいて、宰相は慌てて謝罪した。



 和平条約終結前の会合の帰り、ならず者に教われた使者一行は四人の死者を出した。
 二人は襲われた現場で戦死し、一人は帰還後死亡した。
 そして最後の一人はどれだけ待っても戻らず、行方不明から戦死に変えられた。

 口と態度は悪いが聖女の友人だった、軍師フォスターである。

 涙を堪えながらシュワルド国代表として務めを果たす聖女を支えた少女シルヴィアも、終戦直後、家に帰ったという。

 短い間に二人の友人を失った傷はまだ治りきっていない。



「いいえ、違うんです。
 良い考えだと思います。
 庭はそのままにしておきましょう。
 いつか、彼が訪れてくれても良いように」
 空色の瞳を滲ませ、女王は微笑んだ。

「寛大なお心、感謝いたします、陛下」


 口調は少々男性のようだが、言われなければ王とは気づかないほど普通の女性で、もしかすればごく普通の家庭の妻でいたかったのかもしれない。
 けれど彼女はシュワルドの聖女で、女王なのだ。
 そして本来ならば王公爵にもなれるはずだった。

(なんという運命の人だろう)

 感嘆のため息が出る。

 父のもとで育っても、母の実家に引き取られても、人の上に立たなければならなかった運命の人。
 あの時神殿に現れなければ、聖女などにはならなかったかもしれないのに。
 大切な人と、小さく幸せな家庭を築いていられたかもしれないのに。

 戦場で声を張り上げることもなかった。
 命を危険に晒されることもなかった。
 友人を失う悲しみを知ることもなかった。

 はずなのに───。

 なぜ彼女は、平穏な人生を歩まなかったのだろう。

(愚問だな)
 自嘲した。
 それは聖女というその人を見ていればわかる。

 国を心から愛しいと思うからだ。



「陛下。
 軍師どのはきっと、陛下が再興に励まれるお姿を見て、喜ばれておいででしょう」

「そうだと嬉しく思います。
 わたしは彼の生まれがどこなのかも聞かなかったから、祈りを捧げることもできないでいます。
 ……友人といっても、わたしたちは、自分のことはほとんど話さなかったので。

 ウォーレン宰相殿は、彼の生まれがどこなのかお聞きになりましたか?
 森のというのは、どこのことなのでしょうか?

 彼は本当は、誰だったのでしょうか……?」

 これにどう答えるべきか宰相は困った。
 たぶん知っているのだが、教えてしまってはいけない気がする。
 だからといって主に嘘をつくことはできない。

「彼は……」

 開けられた窓から入り込んだ風が、宰相の癖のある髪を揺らし、女王の艶やかな栗毛を撫でていった。
 まるで彼のようだ。

 突然現れて、突然、消えていく。

 心揺さぶる思いを、冷徹な言葉を、温かな眼差しを見せておきながら何一つ残していかなかった。
 掴みとる暇もなく去っていき、差し出した手には彼ではなく、本当にほしかったものが握られていた。
 手にして初めて、必要なものだと気づいた。

 彼は、きっかけをくれた。
 目に見えない、けれど確かにそこにあるものを教えてくれた。

 慈しむ、という心を。

 許す、という手を。

 惜しむ、という方法を。

 通り過ぎる瞬間、そっと耳打ちしてくれたのだ。



「彼は、風の使者なのです」