グロバー国から報せが届いた。
王公爵であるコレッタ王女の婚儀の招待状。
読み上げられた内容を聞いて二人は視線を合わせ、慌ててそらした。
自分の出生が気にかかり、マリーナは結婚したいという気持ちを持たないようにしていた。
それが顔に出ることが怖かった。
クラウスはきっと困るだろうから。
執務室に戻っても、クラウスの顔を見ることが、いつもより難しかった。
昼食には子女たちに囲まれ、二人きりになることはなかった。
夕食までのほんの短い時間。
無理やり、大臣が追い出された。
「……クラウス?」
追い出された大臣に謝罪の言葉を向け、クラウスは扉を閉めた。
しばらく、その大きな背中を見つめることになった。
もう一度、呼びかけた。
クラウスが振り返る。
「姫……。
お話があります」
「今か?」
「今、です」
真剣な眼差しに、筆を置く。
大切な話なのだ。
真剣に受け止めなければと思った。
「話せ」
クラウスは懐から、小さな指輪を差し出して見せた。
その日は夜になって寝る用意ができても眠れず、窓辺で一人、月を見上げていた。
まん丸までもう少しとなった月は金色に輝いて見える。
まるでフォスターの眼のようだと思うと、胸の奥で哀しさがジンと沸いた。
(もう寝ないと)
明日は婚儀の贈り物を選ばなければならない。
友人の初めての結婚だから、何を贈って良いのかわからないが、きっと良いものが見つかるだろう。
窓に背を向けて離れようとしたとき、月光が動いて絨毯に人影を作った。
驚いて振り向くと、そこには月の光が人の姿をとっていた。
目を凝らすと月明かりに照らされているだけだったが、そのときの彼は本当に神々しかった。
「……フォスター」
「まだ寝ていなかったのか」
「ゆめ、か?」
昔のままの金色の瞳が微笑む。
「もちろん、夢だ」
「……そうか。夢か」
哀しかったが、嬉しくもあった。
行方不明になってから彼のことは夢でさえ会えなかったから。
やっと会うことができた。
「シルヴィアは元気か?」
「蝶みたいに飛び回っているよ」
「本当に?」
口では信じられないと言うが、確かにシルヴィアならどこへでも飛んでいきそうだ。
あれは和平が終結され、マリーナたちが安堵したときだった。
シルヴィアは二人だけの静かな露台に立って、きれいな金髪を風になびかせていた。
聖女の友人、騎士の命の恩人として丁重にもてなされる彼女はしかし、重たいドレスを嫌って侍女のような服でいた。
長い沈黙。
たった一言『帰る』という言葉が言えなくて、たくさんの涙を流してくれた。
『ごめんなさい、姫様』
ありがとうと、マリーナは何度も言った。
大切な人の死を圧してまで自分のそばにいてくれたことに心から感謝した。
言葉が軽すぎて足りず、抱き合って泣いた。
『ありがとう』
「マリー?」
「……明日、コリィ様への贈り物を選ぶんだ。
コリィ様、ご結婚されるんだ。
どんなものがいいかな?」
「自分が贈りたいものを選べばいい」
クラウスと同じ答えを返され、マリーナは頬を膨らませた。
そんな答えでは参考にならないのだ。
「そうだな。
手鏡とか櫛とか、身につけるもの以外の、毎日目に付くものがいいんじゃないのか?」
「どうして身に付けるものはいけないんだ?」
「それを贈りたいやつが他にいるから」
「……ふーん」
「マリーは何を貰って嬉しい?」
「そうだな……」
町の子どもたちに花を貰ったり、店先から果物をくれる人もいて、そんなときは嬉しいと思う。
グロバー国王姉からの贈り物も素晴らしいものばかりで、その細やかな気遣いは嬉しかった。
その中でも一番嬉しいと思うものといえば、一つしかない。
「花、かな」
毎朝一輪、クラウスが欠かさず食卓に飾ってくれる花。
季節の野の花から花壇で丹念に育てられた花と、いろんな花をくれる。
毎日それが一番の楽しみでもある。
「王公爵邸の庭は花園と呼ばれるそうだ。
植木でも贈ったらどうだ?」
「そう、か。
うん、それはいいな」
まだ見たこともない父の家。
たぶん一生足を踏み入れることもないだろう、故郷になるはずだった家。
「……フォスター」
「ん?」
「父は、……どうして、わたしを、手放したんだろう?」
マリーナは胸を押さえた。
服の下には飾り気のない指輪がひとつ、紐に通され首にかけられて下がっている。
『姫。
あなたは、グロバー国の、王公爵家の姫君です。
この指輪は、あなただけが持つことを許されている』
夕食までのほんの短い時間にクラウスが教えてくれた。
実父が誰であるのか。
そのときに手渡された指輪は、混乱して投げつけることろだった。
ひんやりと冷たいばかりで、なんの記憶も呼び起こさない。
「手放した……か。
おまえはそう思っているのか?」
「違うのか?」
不安そうに尋ね返したマリーナを見て、彼はかすかに微笑んだ。
「マリー。
自分の名前を言ってみろ」
「……マリーナ?
マリーナ・ウィリアナ」
「女だったら母親の名前を、男だったら父親の名前をつけようって約束したらしい。
でも……欲張ったんだな。
二つとも付けて」
くすくすと、笑い声。
「え? あの、フォスター、で、でも」
「ウィリアナの男名は?」
「え? あ、ウィリ……ア、ム…………?」
先代王公爵の名は確か、ウィリアム・ボリス。
女の子だったらマリーナ、男の子だったらウィリアムと名付けようと約束したんだ。
でも、あんまりかわいくてね。
どちらかなんて選べなかった。
男の子が生まれていたら、ウィリアム・マリンなんて付けていたんじゃないかな。
「───なんていう親が、簡単におまえを手放したと思うか?」
「…………」
「……マリー?」
すぐに嗚咽が喉に絡んだ。
大粒の涙が頬を伝って落ちていくのに、拭いもせずに彼を見つめる。
尋ねたいことがたくさんある。
わからないことが日々増えていく。
哀しいことも、嬉しいこともあるのに。
毎日が新しい発見の繰り返しなのに。
なぜ自分は愛されていることには気づかないのだろう。
父親だと思っていた人はただの伯父で。
病弱だった母は自分を産んですぐに亡くなり。
本当の父は……。
愛してくれていたのだと。
人に言ってもらわなければわからない。
一度も会ったことのない父は、生まれた我が子を見てかわいいと思ってくれた。
それだけで胸がいっぱいになる。
嬉しいと思う。
それを教えてくれた人が涙で見えなくなるくらい、一度も父と呼べなかったことが惜しい。
「マリーナ」
涙を拭う指先はひんやりと冷たく、マリーナの頬を冷やした。
「一緒に暮らした時間は短かったかもしれない。
おまえは覚えていないかもしれない。
それでも、両親が、おまえが生まれたことをとても喜んだことだけ、覚えておいてほしい」
マリーナはうなずいた。
このことは一生忘れないだろう。
生きているかぎり、この命が生まれた瞬間に愛されたことを忘れない。
「マリーナ」
優しい声がする。
耳の奥にじんと響く音。
髪を撫でられ、耳の形をなぞられる。
ふっ、と温かいものが頬に触れた。
間近でみるフォスターの顔はいつまでも美しいと思った。
途端。
「ん」
接吻された。
驚いて悲鳴をあげようと口を開くと、何かが口の中に転がり込み、おもわずゴクンと飲み込んだ。
「いっっ、いや─────────!」
がしゃーん、と音がした。
慌てて起き上がったマリーナはドキドキと痛いほど脈打つ胸を押さえ、生々しい感触を残す唇に触れた。
とてつもなくものすごいことをされたような気がする。
「陛下、どうなされました!」
侍女が駆け寄ってきた。
マリーナは寝台にいた。
いくつもある広い部屋のひとつ。
見慣れた豪華な寝室。
朝陽が眩しい。
(ゆめ……)
ではこの生々しすぎる感触のあとは何?
口腔に感じられる蜜のような甘いものは……。
まだ胸が苦しい。
「あの……陛下?
どうかなされましたか?
おかげんでも……」
侍女の心配げな声が聞こえ、マリーナは彼女を振り返った。
「く……………………」
「はい?」
「ク……クラウス──────!!」
女主人の絶叫は、控え室も飛び越えて廊下まで響いた。
慌てて駆けつけた騎士クラウスは控え室で割れた花瓶のそばでおろおろとする侍女を見つけたが後回しにし、一瞬の躊躇いもなく女主人の寝室へと駆け込んだ。
「姫、どうなさいました!?」
寝台の上に座ったままのマリーナは、クラウスの声に泣き出しそうな顔を振り向けた。
大きな手がマリーナの肩を抱き、胸を抑える手にもう片手が添えられる。
「く、く、く、く、……フ、フ、フォ、フォフォ……フ、キ、く、ち…………」
「は……はい?」
動揺するマリーナは巧く伝えられないことにさらに混乱した。
言葉の代わりにクラウスの手を掴み、大胆にも自分から抱きついた。
クラウスも男である。
大いに動揺した。
「……………………ひ、ひ、め?」
マリーナは泣き出した。
鍛えられた胸に柔らかいものが押し当てられ、クラウスは動揺と混乱を一緒に味わう羽目になる。
愛する人の柔らかな肉体が薄い布一枚向こうにあるなんて、騎士道精神を捨てたくなった。
「……………………っ」
だがやはり、捨てられなかった。
清々しい朝の空気と背後からの侍女の視線が彼の理性を引きとめたのだ。
男は忍耐、と戒める。
この朝の騒動は本人とその騎士、有能な侍女と宰相の胸に納められるだけとなる。
その年、シュワルド国女王の婚約が急に取り決められ、さらに性急に婚儀の予定が組まれた。
日程はなんとコレッタ王女よりも早い。
周囲がどれほどこのときを待ち侘び、それ来たとばかりに飛びついたのかがわかる。
お相手は、周囲にとってはいまさらな、聖女の騎士クラウス・エメールである。
婚約発表に駆けつける領主たち、近国の使者。
もちろんそのなかに、女王の友人であるグロバー国のコレッタ王女の姿もあった。
弟国アインス王は何があったのかやせ細った姿で現れ、長々とした祝辞を口にした。
王族自らが祝いに来てくれたのはこの二国だけである。
それだけで三国の強い結びつきが周囲に印象付けられた。
その背後で何かが起こっていただなんて、誰も知らない。
王公爵であるコレッタ王女の婚儀の招待状。
読み上げられた内容を聞いて二人は視線を合わせ、慌ててそらした。
自分の出生が気にかかり、マリーナは結婚したいという気持ちを持たないようにしていた。
それが顔に出ることが怖かった。
クラウスはきっと困るだろうから。
執務室に戻っても、クラウスの顔を見ることが、いつもより難しかった。
昼食には子女たちに囲まれ、二人きりになることはなかった。
夕食までのほんの短い時間。
無理やり、大臣が追い出された。
「……クラウス?」
追い出された大臣に謝罪の言葉を向け、クラウスは扉を閉めた。
しばらく、その大きな背中を見つめることになった。
もう一度、呼びかけた。
クラウスが振り返る。
「姫……。
お話があります」
「今か?」
「今、です」
真剣な眼差しに、筆を置く。
大切な話なのだ。
真剣に受け止めなければと思った。
「話せ」
クラウスは懐から、小さな指輪を差し出して見せた。
その日は夜になって寝る用意ができても眠れず、窓辺で一人、月を見上げていた。
まん丸までもう少しとなった月は金色に輝いて見える。
まるでフォスターの眼のようだと思うと、胸の奥で哀しさがジンと沸いた。
(もう寝ないと)
明日は婚儀の贈り物を選ばなければならない。
友人の初めての結婚だから、何を贈って良いのかわからないが、きっと良いものが見つかるだろう。
窓に背を向けて離れようとしたとき、月光が動いて絨毯に人影を作った。
驚いて振り向くと、そこには月の光が人の姿をとっていた。
目を凝らすと月明かりに照らされているだけだったが、そのときの彼は本当に神々しかった。
「……フォスター」
「まだ寝ていなかったのか」
「ゆめ、か?」
昔のままの金色の瞳が微笑む。
「もちろん、夢だ」
「……そうか。夢か」
哀しかったが、嬉しくもあった。
行方不明になってから彼のことは夢でさえ会えなかったから。
やっと会うことができた。
「シルヴィアは元気か?」
「蝶みたいに飛び回っているよ」
「本当に?」
口では信じられないと言うが、確かにシルヴィアならどこへでも飛んでいきそうだ。
あれは和平が終結され、マリーナたちが安堵したときだった。
シルヴィアは二人だけの静かな露台に立って、きれいな金髪を風になびかせていた。
聖女の友人、騎士の命の恩人として丁重にもてなされる彼女はしかし、重たいドレスを嫌って侍女のような服でいた。
長い沈黙。
たった一言『帰る』という言葉が言えなくて、たくさんの涙を流してくれた。
『ごめんなさい、姫様』
ありがとうと、マリーナは何度も言った。
大切な人の死を圧してまで自分のそばにいてくれたことに心から感謝した。
言葉が軽すぎて足りず、抱き合って泣いた。
『ありがとう』
「マリー?」
「……明日、コリィ様への贈り物を選ぶんだ。
コリィ様、ご結婚されるんだ。
どんなものがいいかな?」
「自分が贈りたいものを選べばいい」
クラウスと同じ答えを返され、マリーナは頬を膨らませた。
そんな答えでは参考にならないのだ。
「そうだな。
手鏡とか櫛とか、身につけるもの以外の、毎日目に付くものがいいんじゃないのか?」
「どうして身に付けるものはいけないんだ?」
「それを贈りたいやつが他にいるから」
「……ふーん」
「マリーは何を貰って嬉しい?」
「そうだな……」
町の子どもたちに花を貰ったり、店先から果物をくれる人もいて、そんなときは嬉しいと思う。
グロバー国王姉からの贈り物も素晴らしいものばかりで、その細やかな気遣いは嬉しかった。
その中でも一番嬉しいと思うものといえば、一つしかない。
「花、かな」
毎朝一輪、クラウスが欠かさず食卓に飾ってくれる花。
季節の野の花から花壇で丹念に育てられた花と、いろんな花をくれる。
毎日それが一番の楽しみでもある。
「王公爵邸の庭は花園と呼ばれるそうだ。
植木でも贈ったらどうだ?」
「そう、か。
うん、それはいいな」
まだ見たこともない父の家。
たぶん一生足を踏み入れることもないだろう、故郷になるはずだった家。
「……フォスター」
「ん?」
「父は、……どうして、わたしを、手放したんだろう?」
マリーナは胸を押さえた。
服の下には飾り気のない指輪がひとつ、紐に通され首にかけられて下がっている。
『姫。
あなたは、グロバー国の、王公爵家の姫君です。
この指輪は、あなただけが持つことを許されている』
夕食までのほんの短い時間にクラウスが教えてくれた。
実父が誰であるのか。
そのときに手渡された指輪は、混乱して投げつけることろだった。
ひんやりと冷たいばかりで、なんの記憶も呼び起こさない。
「手放した……か。
おまえはそう思っているのか?」
「違うのか?」
不安そうに尋ね返したマリーナを見て、彼はかすかに微笑んだ。
「マリー。
自分の名前を言ってみろ」
「……マリーナ?
マリーナ・ウィリアナ」
「女だったら母親の名前を、男だったら父親の名前をつけようって約束したらしい。
でも……欲張ったんだな。
二つとも付けて」
くすくすと、笑い声。
「え? あの、フォスター、で、でも」
「ウィリアナの男名は?」
「え? あ、ウィリ……ア、ム…………?」
先代王公爵の名は確か、ウィリアム・ボリス。
女の子だったらマリーナ、男の子だったらウィリアムと名付けようと約束したんだ。
でも、あんまりかわいくてね。
どちらかなんて選べなかった。
男の子が生まれていたら、ウィリアム・マリンなんて付けていたんじゃないかな。
「───なんていう親が、簡単におまえを手放したと思うか?」
「…………」
「……マリー?」
すぐに嗚咽が喉に絡んだ。
大粒の涙が頬を伝って落ちていくのに、拭いもせずに彼を見つめる。
尋ねたいことがたくさんある。
わからないことが日々増えていく。
哀しいことも、嬉しいこともあるのに。
毎日が新しい発見の繰り返しなのに。
なぜ自分は愛されていることには気づかないのだろう。
父親だと思っていた人はただの伯父で。
病弱だった母は自分を産んですぐに亡くなり。
本当の父は……。
愛してくれていたのだと。
人に言ってもらわなければわからない。
一度も会ったことのない父は、生まれた我が子を見てかわいいと思ってくれた。
それだけで胸がいっぱいになる。
嬉しいと思う。
それを教えてくれた人が涙で見えなくなるくらい、一度も父と呼べなかったことが惜しい。
「マリーナ」
涙を拭う指先はひんやりと冷たく、マリーナの頬を冷やした。
「一緒に暮らした時間は短かったかもしれない。
おまえは覚えていないかもしれない。
それでも、両親が、おまえが生まれたことをとても喜んだことだけ、覚えておいてほしい」
マリーナはうなずいた。
このことは一生忘れないだろう。
生きているかぎり、この命が生まれた瞬間に愛されたことを忘れない。
「マリーナ」
優しい声がする。
耳の奥にじんと響く音。
髪を撫でられ、耳の形をなぞられる。
ふっ、と温かいものが頬に触れた。
間近でみるフォスターの顔はいつまでも美しいと思った。
途端。
「ん」
接吻された。
驚いて悲鳴をあげようと口を開くと、何かが口の中に転がり込み、おもわずゴクンと飲み込んだ。
「いっっ、いや─────────!」
がしゃーん、と音がした。
慌てて起き上がったマリーナはドキドキと痛いほど脈打つ胸を押さえ、生々しい感触を残す唇に触れた。
とてつもなくものすごいことをされたような気がする。
「陛下、どうなされました!」
侍女が駆け寄ってきた。
マリーナは寝台にいた。
いくつもある広い部屋のひとつ。
見慣れた豪華な寝室。
朝陽が眩しい。
(ゆめ……)
ではこの生々しすぎる感触のあとは何?
口腔に感じられる蜜のような甘いものは……。
まだ胸が苦しい。
「あの……陛下?
どうかなされましたか?
おかげんでも……」
侍女の心配げな声が聞こえ、マリーナは彼女を振り返った。
「く……………………」
「はい?」
「ク……クラウス──────!!」
女主人の絶叫は、控え室も飛び越えて廊下まで響いた。
慌てて駆けつけた騎士クラウスは控え室で割れた花瓶のそばでおろおろとする侍女を見つけたが後回しにし、一瞬の躊躇いもなく女主人の寝室へと駆け込んだ。
「姫、どうなさいました!?」
寝台の上に座ったままのマリーナは、クラウスの声に泣き出しそうな顔を振り向けた。
大きな手がマリーナの肩を抱き、胸を抑える手にもう片手が添えられる。
「く、く、く、く、……フ、フ、フォ、フォフォ……フ、キ、く、ち…………」
「は……はい?」
動揺するマリーナは巧く伝えられないことにさらに混乱した。
言葉の代わりにクラウスの手を掴み、大胆にも自分から抱きついた。
クラウスも男である。
大いに動揺した。
「……………………ひ、ひ、め?」
マリーナは泣き出した。
鍛えられた胸に柔らかいものが押し当てられ、クラウスは動揺と混乱を一緒に味わう羽目になる。
愛する人の柔らかな肉体が薄い布一枚向こうにあるなんて、騎士道精神を捨てたくなった。
「……………………っ」
だがやはり、捨てられなかった。
清々しい朝の空気と背後からの侍女の視線が彼の理性を引きとめたのだ。
男は忍耐、と戒める。
この朝の騒動は本人とその騎士、有能な侍女と宰相の胸に納められるだけとなる。
その年、シュワルド国女王の婚約が急に取り決められ、さらに性急に婚儀の予定が組まれた。
日程はなんとコレッタ王女よりも早い。
周囲がどれほどこのときを待ち侘び、それ来たとばかりに飛びついたのかがわかる。
お相手は、周囲にとってはいまさらな、聖女の騎士クラウス・エメールである。
婚約発表に駆けつける領主たち、近国の使者。
もちろんそのなかに、女王の友人であるグロバー国のコレッタ王女の姿もあった。
弟国アインス王は何があったのかやせ細った姿で現れ、長々とした祝辞を口にした。
王族自らが祝いに来てくれたのはこの二国だけである。
それだけで三国の強い結びつきが周囲に印象付けられた。
その背後で何かが起こっていただなんて、誰も知らない。