何度も振り返っては手を振って帰っていく少女。
 それでもいつしか見えなくなった。
 シルヴィアは見送ったときのまま手を上げていた。

 ぼんやりとしたままきびすを返し、崩れた小屋に向かい合う。

 木漏れ日が目に痛い。

 青々とした葉を茂らせる木々は人の手がはいった記憶を消し、若い蔦が這うのに任せている。
 蔦は崩れた小屋も取り囲み、小屋は緑で埋まろうとしていた。

 土に埋もれた鉢植えの残骸。
 草を生やした扉の端。
 苔の花を咲かせる屋根。
 木枠はすでに窓枠としての役目を果たさず、ただの木屑と成り果てた。

 忘れられているわけではない。
 そのままにしておいてほしいという願いを友人が聞き届けてくれたのだ。
 いつか小屋のすべてがただの木屑になっても放っておいてくれるだろう。

「ヴィア」
 後ろから声をかけられる。
 聞き慣れた声は優しかった。
「そろそろ帰ろう」

 彼を振り向かず、独り言のように言う。
「ねぇ。
 姫様がくれた森、わたしとっても気に入ったわ」

 彼は小さな笑みを浮かべただろう。
 今回貰ったものは本人も気に入っているようだ。








 朽ちた家の周囲は静寂が包む。

 濃い緑の濃厚な匂いと静謐さ。



 ねぇ
 わたしたち、ずっといっしょよね


 舌足らずな少女の声。
 応える少年の声は喜びに満ち、震えていた。


 たとえこの身が二つに裂かれようと
 たとえ永遠に近いときが経とうと

 この心はあなたのもとに

 ずっと

 ずっとおそばにおります、姫



 森のなかに微かに残る、淡い想い。

 貴重なものを得られたフォスターは、深い森色の瞳を微笑ませる。




 崩れた家のそばで、濃い桃色の花が咲こうとしていた。










――完――


 マリーの胸はいっぱいになっていた。
 何度聞いてもすてきなお話だ。
 あと百回聞いても飽きないだろう。

「楽しんでくれた?」
「えぇ、とっても!
 あなたお話が上手なのね。
 わたしのお話し相手になってくれたらいいのに」

「お話する人はいないの?」
「いっぱいいるわ。
 でもみんなあなたみたいなお話ししないわ」
 女の人は首をかしげた。
 細い金髪がふわりと揺れ、マリーはうっとりと見惚れた。

「どこかおかしいところがあった?」
「うぅん。
 そうじゃなくてね、みんなね、『ございます』とか、『であるからにして』とかね、おかしな言いかたをするのよ。

 そのお話は好きなのに、ちっともおもしろくないの。
 みんなのお話しのしかたがイヤなの。

 それにね、軍師さまと聖女の騎士が、仲が悪かったなんて、初めて聞いたわ」
 ふーん、と女の人はうなずいた。



「ね、ほんとうに、お城にこない?」
「お城に? わたしが?」
「そうよ。
 わたしがお父さまにお願いしてみるから」

 ね、とマリーは笑った。
 兄たちが大好きな顔だ。
 だが女の人は苦笑して、それはできないと言った。

 マリーは驚いた。
 願いが通らないことはたまにあるが、城勤めを断られたことはない。

「わたしね、あるお屋敷に勤めてるの。
 奥様はお足が悪いから辞められないわ。
 奥様のことが心配だもの」
「そ、そんなに悪いの?」
「雨の日はずっと臥せっていらっしゃるの」

 女の人は泣き出しそうな顔をした。
 でも涙は出なかったのでマリーは安心した。
 慰めてもらったことはたくさんあるが、慰めたことはない。

 小さなため息をついた女の人はあごを上げて、木漏れ日のまぶしさに目を細めた。
 ちょっとした仕草やささやかな風に揺れる髪は初めて見るくらい細く、艶やかだ。
 黄金でできているように美しい。



「お家はどこなの?」
「わたしの家?
 ここよりずっと東よ。
 どうして?」

「あのね、あなたみたいなキレイな髪の人、初めてなの。
 お城の外からくる人にだって、こんなキレイな人いなかったわ」
「そう? ありがとう。
 あなたはお城に住んでいるの?」
「そうよ。
 だって王女だもの」

「…………。
 お姫様なの?」

 心底驚いたような顔をされ、マリーはがっかりした。
 今日は汚れるだろうと思ってちょっと古いドレスを着てきたからだろうか。
 それとも地味に三つ編みで済ませた髪のせいか。
 城仕えをあっさり断ったのは、マリーを王女だと思いもしなかったからだろう。

「ごめんなさい、姫様。
 失礼なことばかりしたわ」
「いいの。
 だってお澄まししなくていいもの。
 怒ることなんてないわ」

 女の人はくすりと笑った。
「友だちにそういう人がいたわ。
 その人もお姫様なのに、下手だけど料理をしたり、水のお風呂に入ったり、敷布の敷き方がわからないって言ったり」
「お姫様なの、その人?
 お姫様と友だちなの?」

 敷布のなんて侍女が毎日取り替えてくれるから、自分でしようなんてちっとも思わなかった。
 言われてみればどうするのか知らないし、厨房なんてどこにあるのかもわからない。

「そう。
 大切な友だちなの」
「その人のところにいるの?」
 女の人はちょっと困った顔をして首を振った。

「彼女は、もう……遠くへ行ってしまったの」
「あ………………ご、ごめんなさい」
 いいの、と女の人は言った。

 女の人は俯いて、膝の上においた手を眺めている。
 その視線が少しあがって地面を見、もう少しあがって草を見、さらにあがって木を眺めた。
 ずっと遠くを見通すような眼差しをして。

「きれいなお庭ね。
 森みたい」
「気に入った?
 だったら、また来てもいいわ。
 お父さまには内緒にしておいてあげるから」
「内緒に?」
 二人の視線が合うと、おかしさがこみ上げて笑い声を上げた。



「ねぇ。
 あなたの名前を聞いてもいいかしら?
 わたしはマリーナよ。

 マリーナ・ウィリアナっていうの」

「……マリー、ナ?」
「そうよ。
 シュワルド国王家の長女だもの。
 ウィリアナはね、お祖母さまからいただいたのよ。
 だからね、わたし、毎日このお庭に種をまくのよ」

「種を?」
「あのね、お祖母さまが王さまだったときにね、食べものがなくなってしまったんですって。

 畑をたがやしても、嵐がぜんぶ持ってちゃったんですって。
 それでお祖母さまはね、この森にみんなをいれてね、木の実やお花をとってもよいって、お許しになったの。
 それでその年はよかったんですって。

 でもね、次の年には木の実もお花もなくって、やっぱり畑では食べものがつくれなくて、しかたがないから木を切って、おとなりの国に売ったの。
 それで食べものを買って、みんなで分けたんですって。
 それでまたその年もよかったの。

 でね、次の年には畑から食べものができたの。
 でもちょっとしかなかったから、やっぱり木を切って、おとなりの国に売ったの。

 それでね、その次の年にはね、たくさん、食べ物ができたのよ!
 もうこのお庭から食べものや木を持っていかなくてもよかったの。
 でもね、お庭にはね、お花も木の実もならなかったの。
 次の年も、その次の年もお花は咲かなかったんですって」

 マリーは西のほうを指した。
「あっちには行ったことがある?」
 女の人は首を振った。

「あっちもお庭なの。
 でもね、ここみたいに木がなくて、森には見えないの。
 むかし木を切って売ってしまったからなんですって。

 だからね、お祖母さまはずっと毎日、お花の種をうえていらしたの。
 いつか元どおりになるようにって。

 でもね、もうお祖母さまはお歳だから、わたしがかわりに種を植えるの。
 わたしはお祖母さまとおなじ名前だから、きっと森が許してくれるわ」

 マリーは誇らしげに胸を張って見せた。
 けれど女の人は悲しそうな顔をしていた。
「森に、許しをいただかなくてはいけないことなの?」

「ばあやがいつも言ってるわ。
 使ったあとは直しなさいって。
 それが自然なことなのですよ、って。

 だからたくさん庭師をいれて、森を元どおりにするのよ。
 そうすれば森の番人が、木の実やお花をつけてくれるのよ。
 きっと、お祖母さまのお願いがつうじたから、きのこもできたのよ」

 女の人にじっと見つめられる。
 その人の瞳の色はとても深い青色で、兄たちと星を数えた夜の空のような色だ。



「ねぇ。
 あなた、なんていうお名前なの?」
 もう一度尋ねると、女の人ははっとしたように肩を震わせ、苦笑した。

 目に涙を浮かべて。
「シルヴィアよ、姫様」

 嬉しそうに微笑んだ。

 満開の花園。

 目も眩むような色とりどりの花。
 むせ返るような甘い香り。

 ポプラの木立に囲まれた庭。

 野ばらの道を抜け、鉄扇の門をくぐり、花びらも流れる小川に架かる橋を渡ると、金木犀に囲まれた小道が現れる。
 緩やかな上り坂をゆっくり登ると、小道の終わりには開けた場所があった。

 周囲は小さな花を咲かせる背の高い木々に囲まれ、屋敷も見えない。
 反対側は庭の半分が見渡せた。
 リースの迷路、ポピーとスイートピーの海、雪柳の白い滝、三色スミレの絨毯。

 小さな広場には、猫足の白い机に揃いの椅子が二脚。
 そして客人をもてなす人。

「ようこそいらっしゃいました、マリー様」

 慎ましいながらも美しく結い上げた髪は淡い金髪の、女主人。
 父王からウィンストン王公爵を任されたコレッタ王女は、美しい淑女へと成長していた。

「お久しぶりです、コリィ様」

 念願の子を出産したシュワルド国女王マリーナは、薄い空色の瞳で微笑んだ。



 先年、マリーナは、先代ウィンストン王公ウィリアムの実子であることが立証され、グロバー国との友好的な結びつきを強くすることとなった。

 この吉報に誰もが驚き、いかにしてそれが立証されたのか詳しく探ることをしなかった。
 いや、できなかった。
 グロバー国王姉の喜びように、誰も疑いをもてなかったのだ。

 また、グロバー国の片隅でひっそりと最期を迎えた先代シュワルド国王とその家族は、人々の記憶の片隅に追いやられた。
 今日の平和を築いてくれたのは聖女であり、逃亡先で倒れた愚王ではないことは誰もが知っている。



 二人の婦人が席に着く。
 女王公爵の後ろにひっそりと従っていた侍女は、爽やかな香りのする花茶を差し出した。

 一口飲んで、マリーナは驚いた。
「あぁ、美味しい」
「でしょう?」
 女王公爵は嬉しそうに言う。

「王姉殿下の薔薇園も見事だとお聞きしますが、こちらもとても美しいですね、コリィ様。
 花園と呼ばれるだけのことはおありです」

「マリー様がくださった木も、じきに花を咲かせますわ。
 スライの贈ってくれたものと、どちらが早く咲くのかしら」

 和平が終結されると、あれほど活躍してくれた盗賊団はあっさり故郷に帰ってしまった。
 と思いきや、なんと彼らのねぐらは、このウィンストン王公領のすぐ近くなのだ。

 シュワルド国で知り合ったことがきっかけで、ときどき女王公爵に会いに来るらしい。
 王族以外の金持ちしか襲わないというのが彼らの信条らしく、女王公爵も気兼ねせず彼らを迎える。

 ふふ、とマリーナは笑った。



 今日、マリーナがウィンストン王公爵邸を訪れたのは、いくつか理由がある。
 父の家に里帰りすること、友人との約束があったこと、そしてその友人におめでたいことがあったから。

 結婚六年目にして、やっと王公爵家にも天からの恵が訪れた。
 男子か女子かと、王公爵夫君は一日一日の長さにやきもきしているという。

「男子ですか? それとも女の子?」
「わたしはどちらでもかまわないんですけど、夫は女の子がいいなんて言うんですよ」
「いけないのですか?」
「だって女の子だったら、わたくしに構ってくれなくなりますわ」

 ぷん、と頬を膨らませる友人の顔に、マリーナはおもわず声をあげて笑った。
 自分でも恥ずかしかったのか、女主人は頬を赤らめる。

「お子方はお元気ですか? もう大きくおなりでしょうね」
「やんちゃ盛りで、クラウスが毎日追いかけています。
 特にフォスには手を焼いているみたいで」
「あの軍師さまみたいですわね」
「本当に」

 二人の貴婦人は笑い声を上げた。



 マリーナがグロバー国王家の血縁者であることの証明のひとつに、子どもがあった。
 グロバー国王家では双子の出産が多く、しかもマリーナの子は二人とも目の色がグロバー国王家特有の、薄い空色の瞳だったのだ。

 双子の一人にはフォスターと名付けた。
 もう一人はシルヴィン。
 あの軍師フォスターと、金糸の髪のシルヴィアから貰ったものだ。

 我が子に友人の名をつけたいと言ったとき、クラウスはちょっと嫌な顔をしたが、結局うなずいてくれた。
 べつにクラウスだって心の底から嫌っているわけではない。
 あの口調と態度が気に入らなかっただけで、シュワルド国への貢献には心から感謝している。

 シルヴィアは友人を助けたいと、フォスターはそのシルヴィアに泣きつかれたからとマリーナたちを助けてくれた。
 結果、シュワルド国という大きなものまで救ってくれた。



 祖国を守り、兄弟国を得、クラウスと結ばれてかわいい子にも恵まれた。
 人々の笑い声と新しい絆、懐かしい思い出───彼の命の重たさが手に取るようにわかる。

 いいや。
 手にすることもできないほど重い。

 もし彼が生きて今ここにいてくれたら、きっとマリーナはその手に接吻しただろう。

 感謝してもし足りない。

 涙も見せず最後まで自分を励ましてくれたシルヴィアの存在はほかに代えることもできず、手紙の送り先さえ聞かなかった自分が愚かしい。

 彼女は今、泣いているだろうか?



「マリー様?」
 手を握られ、マリーナははっと気づいた。

「……コリィ様。
 コリィ様は、居所の知れない人に、どうやってお気持ちをお伝えになりますか?」
 バカなことを聞いたとマリーナは自嘲したが、意外にも答えが返ってきた。

「風に伝えますわ」
「……え?」
 俯けていた視線を上げると、友人は微笑んでいた。
 マリーナが何を悲しんでいるのか知っているような目だ。

「風にお願いするのです。
 思いを伝えてほしい、と」
「風に……?」
「昔からの謂れです。
 風は思いを運ぶものだと。

 太古、すべての国が戦に明け暮れ、戦う理由さえ忘れ、戦いに疲れたとき、人々は多くのものを失っていたことに気づき、涙したそうです。
 神々にすら見捨てられ、生きる気力も失った人々は、この世の終わりだと嘆いたと。

 今は御伽噺にしかいない魔法使いたちは、泣き暮らす人々のために、風に思いを乗せて運ばせ、死を選ぶ人を諭し、取り乱す人を静め、嘆く人を励まし───そうやって、多くの心を慰めたと言います。
 風には、神々とともには還らずにいた精霊が宿っていて、それが人々の希望になったと」


 彼は、風の使者なのです───


 ウォーレン宰相の言葉が頭のなかに甦った。

 風のように訪れて、名残だけを残して消えていく風のようだと。
 誰もが彼をそういう。
 マリーナもそう思う。



 彼の故郷が森にあったと


 なにものにも捕らわれず、飾らず。

 森のなかで、森とともに生きていく方法を知っていたのだろう。
 彼らは本当に必要なものだけを手にしていた。

 それを手にいれる方法をマリーナたちにも教えてくれた。
 新アインス国を許し、逃げたシュワルド国王を追いもせず、暗殺を謀った従兄弟ポルターを丁寧に埋葬した。
 すべて時が経てば自然が飲み込んでくれると知っていた。

 憎み返すことだけがすべてではないと、教えてくれた。



 最初に出会ったとき、光が飛び出してきたのかと思った。

 明るい日差しの庭の端に彼女は転がり込んできた。
 マリーナを見上げて、微笑んだ。

 マリーナの手を強く握りしめ、この身の不遇を嘆き、怒り、抱きしめてくれた。
 柔らかな手が背をなで摩り、暖かな食事をご馳走してくれた。



 最初に出会ったとき、彼の瞳は光の加減で金色に見えた。

 蝋燭一本だけの明かりのなかから自分を導き、夜空にはキラキラと輝く星が無数にあることを教えてくれた。
 その輝きを一生忘れないだろう。

 彼も故郷を離れるときは悲しかっただろうか。
 彼にとって半年は長かっただろうか。

 今、彼の魂は、故郷の森の大きな木の枝に腰掛け、昼寝でもしているのだろうか。



 森に帰るの
 わたしたちの家があるの

 そこからずっと
 姫様のこと

 想っているからね



 これから彼らを思い出すたび、その後ろには森を思い浮かべるだろうと、マリーナは思った。

 あの庭はそっとしておこう。

 彼の眠りが穏やかであるように。
 また、金糸の髪の少女が、訪れてくれるように。



 聖女は、一粒だけ、キラキラと輝く涙を流した。