排除の論理は、当たり前の論理 | 青い球。blauekugelという名に捧ぐ。

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衆院選挙は、希望の党が失速惨敗とのことで、マスコミが引用するのが党首の発言にあった排除の論理。

 

政策の合わない人は排除します。とのこと。

 

実に当たり前の発言である。政党は、(少なくとも建前では)議員の選挙互助会ではない。政策なり価値観なりを共有した人たちが、共通の理想を実現するために結党するもの。旧民主党の面々を助けるために小池さんが新党を旗揚げしたわけではないのである。

 

日本はもっと寛容が必要だとか、そんなことを仰るのは排除された側の「議員屋」の面々だけかと思ったが、マスコミの方々も大勢仰っているように見える。なあなあで済ませて、仲良しこよしだけで政治運営することを散々批判してきた人たちのはずなのに?

 

考え方が合わないのだから、排除されて当然だし、むしろ排除された方々が新党を結党することになって、彼らの理念がより明確になり、大変良かったのではないか。

 

排除の論理が冷たすぎるとか、寛容ではないとか、あまりにも下らなさ過ぎる批判が多くて、こりゃやっぱりこの国の人たちはムラ社会のまま、合理的な判断ができないよねって思う次第。