勅宣日宮 駒形根神社(宮城県栗原市栗駒) | 碧風的備忘録

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勅宣日宮 駒形根神社(ちょくせんひるみや こまがたねじんじゃ)

 

宮城県栗原市栗駒沼倉一ノ宮に鎮座。

延喜式内社で、旧社格は郷社。

御祭神として大日孁尊、天常立尊、吾勝尊(天忍穂耳命)、

國常立尊、天津彦番邇々藝尊、神日本磐余彦火々出見尊を祀る。

その他に、近隣の神社の祭神である日本武尊・素戔嗚尊

正哉吾勝速日天忍穂耳命・天櫛明玉命・軻遇突智命・保食命

大山祇命・木花咲耶姫命・天手力男命・誉田別尊(応神天皇)を

合祀している。

 


勅宣日宮駒形根神社は、社伝によれば、第12代天皇である

景行天皇の皇子の日本武尊が東征の折、その軍勢の様子が

堂々としたもので、雷光の如き勢いであったことから、

蝦夷の首領たちは日本武尊の軍勢を迎撃することができず、

その勢いを恐れ、弓矢や武器を捨てて投降した。

この地を平定した日本武尊は、西にそびえる駒形山の山頂にある

大日岳に自ら六柱の神々を祀って東国鎮護を祈り、祭政一致の

主義に基づき、万民に敬神の念を授けられた。

 

古来、勅宣日宮駒形根神社は『東奥一之宮』や『日の宮』と

呼ばれていたが、人々は栗駒山を畏れ、誰も登拝しようとするものは

いなかった。そのため、文字地区と玉山地区の中間にある

大峯(拝峯とも呼ばれる駒形根神社西方の大峰森付近の場所)から

遥拝するにとどめたという。

 

桓武天皇の御代である延暦20年(801年)、征夷大将軍である

坂上田村麻呂公が東夷征伐の際に、この地に軍勢を進め、

奥羽鎮定を祈願したところ、程なく大勝を得ることができた。

東夷をことごとく平定することができた坂上田村麻呂は、

駒形山の神々への報賽として、駒形山の四方の地である

一関三島(駒形山東方)、花山(駒形山西方)、尾松大鳥(駒形山南方)、

秋田仙北(駒形山北方)の各所に四大門を建立し、自らが

『駒形大明神』と揮毫した大額を掲げたという。

 

仁寿元年(841年)には神階正五位下を賜り、その後の清和天皇の

御代である貞観元年(849年)1月27には勅使として恵美朝臣が下向し、

正一位の神階を昇叙され、『勅宣日宮』の称号を賜った。

この際に恵美朝臣が滞在した旅館のあった場所を勅使屋敷や

高津屋敷といい、また、そこは沼倉地区の都田という場所だと

されている。

その後、延長5年(927年)に完成した平安時代の官社一覧表である

延喜式神名帳には【陸奥国栗原郡 駒形根神社】と記載されている。

 

往時は安部臣巨勢多冶比眞人や源頼義・義家親子が

奥羽下向の時に朝敵降伏を祈願し、その後も平泉の藤原三代は

駒形根神社への崇敬が特に篤く、大日岳に社殿を造営して

武運長久を祈願し、武具や祭田を寄進したと伝わる。

(建立された社殿は火災で消失したが、金具は社宝として残るという)

 

奥羽観蹟聞老誌によれば、駒形根神社は一迫・二迫・三迫

西磐井・羽州雄勝郡などおよそ百八十六村の総鎮守社として

祀られており、四大宮司や三十禰宜、六十社家を有していた。

奥羽総鎮守社としても信仰を集めており、お駒精進講やお駒講、

駒形講などの駒形信仰の源流となった。

 

嘉祥3年(900年)に駒形山大昼寺が建立され、奥羽一帯の修験の地に

なり、神仏混合の時代に入った。それから839年後である

元文4年(1739年)に村民や神官が藩に相談して仏教から分離し、

京都の神祇官領である卜部朝臣兼雄卿により大明神の御宣命を

賜った。

仙台藩に仏教からの分離を相談したとき、同時に神式で祭典を

行いたいと願い出たことから、元文5年に、卜部朝臣兼雄卿から

駒形大明神の御縁起とともに、神輿の運行などの作法を記した

神幸祭式の御下げ渡しがあり、それ以来、4年に一度、荘厳な

神輿渡御が行われている。

 

寛保3年(1743年)には桜町天皇より御宣命と『勅宣』の御宸筆の扁額を

賜る。明治4年には郷社に指定されている。

明治45年5月、天王沢地区の八坂神社・玉山地区の明玉神社

川台地区の山神社・休石地区の愛宕神社を合祀した。

また、下桑畑地区の速日神社も合祀し、境内に速日神社御本殿を

遷座して招魂社としてお祀りしている。

昭和3年に大日岳に建立された奥宮は昭和53年頃に大破したため、

昭和62年に山頂に再建されている。

 

駒形根神社は主に農業や家内安全・商売繁盛の神々とされているが

栗駒山という名前と、山の残雪が馬の形に見える『駒姿』、そして

昔から馬の産地であったことから馬の守護神であると崇敬を

受けており、現代においては交通安全の神々として信仰されている。

 

勅宣日宮駒形根神社の社宝として、坂上田村麻呂公が奉納した

古刀10振、桜町天皇御宸筆の『勅宣』扁額、安倍晴明の末裔である

土御門安倍泰邦卿による『日宮』扁額、狩野法眼永真の黒龍図、

近衛其熈公や下冷泉為経卿の色紙、神馬像や神馬の懸仏、

大日神像の懸仏、藤原秀衡公の『勅宣日宮駒形山』扁額などがある。

 


栗原市栗駒沼倉地区に鎮座する勅宣日宮駒形根神社です。

神社は、駒形山方面に向かう国道457号沿いに鎮座しています。

勅宣日宮駒形根神社参道入口。

 

勅宣日宮駒形根神社鳥居。

 

勅宣日宮駒形根神社鳥居の扁額。

『勅宣日宮』の文字が書かれています。

 

勅宣日宮駒形根神社参道。

参道右側には、宮司さんのお宅や社務所、道場拝殿があります。

 

勅宣日宮駒形根神社道場拝殿。

 

勅宣日宮駒形根神社参道。

参道登り口左側には、郷社に指定された際の記念碑があります。

勅宣日宮駒形根神社の郷社指定記念碑。

駒形根神社の由緒や仏式から神式への祭祀の変遷などが

記されています。

 

参道を登っていくと、途中に中門(長床)があります。

長床は拝殿と門を兼ねた要素を持つもので、もともと、駒形根神社は

駒形山大昼寺という大日如来を祀る寺院として、仏式で祭祀が

行われていたことから、仏教の影響を受けた建築物とされています。

こちらの中門は茅葺きでしたが、現在はトタン葺きとなっています。

また、沼倉地区に長屋門がないのは、この駒形根神社の

中門に似ていることから、神社に遠慮して建築しないのだそうです。

 

中門をくぐると、短い石段の先に広場があります。

 

参道左側には相撲土俵があり、一段上の左右には境内社が

鎮座しています。

参道左側が秋葉神社、右側が招魂社(速日神社旧御本殿)です。

 

広場参道左側の相撲土俵。

秋祭りの際に奉納相撲が行われているようです。

 

阿吽の狛犬。足元にじゃれついてきそうな可愛さがあります。

 

広場を過ぎて石段を登ると、駒形根神社里宮の社殿に到着します。

 

入母屋造の勅宣日宮駒形根神社里宮拝殿。

もともとは茅葺きの拝殿で、現在の中門(長床)の場所に

鎮座していました。現在の鎮座場所には境内社である

秋葉神社が鎮座しており、御本殿・拝殿改築の際に、

肝入(庄屋や名主)であった清水十三郎が現在の鎮座地の土地を

寄進し、現在の社殿が建立されたそうです。

 

安倍晴明の子孫である、土御門安倍泰邦卿の揮毫による

『日宮(ひるみや)』の扁額。

 

一間社流造の勅宣日宮駒形根神社里宮御本殿。

御本殿は享和元年(1801年)に肝入の清水十三郎が発起人となり、

南部藩の木匠により建られたもので、細密な彫刻が施されています。

 

境内社として、秋葉神社と招魂社があります。

参道左側に鎮座する秋葉神社。

御祭神は火産霊神・大鳥神(日本武尊)・倉稲魂神を祀っています。

もともとは、現在の駒形根神社里宮社殿が鎮座する場所に

鎮座していましたが、長床のところにあった里宮社殿との社地交換に

伴い、旧駒形根神社御本殿を秋葉神社社殿として遷座したそうです。

 

招魂社(旧速日神社御本殿)と狛犬。

大正13年に下桑畑地区に鎮座していた速日神社の御本殿を

遷座して、明治から昭和にかけて従軍中に亡くなられた

地域の英霊の御魂をお祀りしています。

速日神社の御祭神は正哉吾勝々速日尊(天忍穂耳尊)で、

速日明神社や小鋭明神社などの別名がある神社だったそうです。

現在は速日明神は駒形根神社に合祀されています。

 

境内の石祠や御幣を持つ石像。

 


勅宣日宮駒形根神社の御朱印ですが、宮司さんが御自宅に

いらっしゃればいただくことができます。ただし、お仕事の関係で

授与は土日・祝日がなりますので、御朱印などを希望される場合は

参拝前に事前連絡をして、書き置きをお願いするなどした方が

いいかもしれません。

勅宣日宮駒形根神社御朱印。

左側の御朱印が現在授与されているもので、

右側の御朱印は『かなり昔に使用していた印』を以前御朱印として

いただいていたものに、宮司さんに墨書を書いていただいたものです。

 

栗駒山に坐す神々を祀る勅宣日宮駒形根神社です。

栗駒山の頂上に鎮座する嶽宮参拝や栗駒山を登頂される際には

道中の安全祈願や登山安全祈願のために駒形根神社へ

お参りされてみてはいかがでしょうか。

 


< 地図 >

備考:参道入口に駐車場あり。御朱印などの授与品は要事前連絡。