宇奈己呂和気神社(福島県郡山市三穂田町) | 碧風的備忘録

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宇奈己呂和氣神社(うなころわけじんじゃ)

 

福島県郡山市三穂田町に鎮座。旧社格は郷社。

延喜式内名神大社・奥州二ノ宮・安積三十三郷総社。

御祭神として祓戸大神・水神・滝の女神である瀬織津比売命を祀る。

その他に、相殿神として八幡大神(誉田別命)を祀る。

 


宇奈己呂和氣神社の社史によれば、宇奈己呂和氣神社は

欽明天皇11年(584年頃)に高旗山の山頂に瀬織津比売命の神霊が

顕現されたため、高旗山山頂に神霊をお祀りしたことに始まります。

 

また、もともとは下守谷村三森峠八幡台(高旗山の北側付近)に

宇奈己呂和氣神社は鎮座しており、欽明天皇11年(584年頃)に

神霊が顕現されたという説もあるそうです。

瀬織津比売命の神霊が顕現された高旗山。

山頂には宇奈己呂和氣神社奥宮の石祠が鎮座しています。

 

高旗山に顕現された瀬織津比売命は、災禍を司る神である『八十禍津日神』や、

伊勢神宮内宮の荒祭宮や兵庫県西宮市の廣田神社で祀られている

天照坐皇大御神荒御魂(別名:撞賢木厳之御魂天疎向津比売命

(つきさかき いつのみたま あまさかる むかつひめのみこと))と

同じ神とされており、八十禍津日神は災禍を司る神であることから、

世の中の罪穢れや災いを取り除き、祓い清めてくださる神でもあると

されています。

 

また、福島県内では、相馬市長老内堤下の天照御霊神社・石上地区の神明社、

南相馬市原町区南柚木の伊勢大御神上大神宮・下大神宮、

伊達市の天照神明宮でも、撞賢木厳之御魂天疎向津比売命が

祭神としてお祀りされています。

 

          

相馬市の天照御霊神社(上段左)、石上地区の八幡神社境内社の神明社(上段右)

南相馬市原町区の伊勢大御神上大神宮(中段左)、伊勢大御神下大神宮(中段右)

伊達市保原町の天照神明宮(下段)

 

なぜ相馬や伊達市で天照大御神の荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津比売命が

局地的に多くお祀りされているのか?

とある神社の宮司さんに伺ってみたところ、伊勢神宮でお祀りされている

天照坐皇大神は古代中国における北極星の化身とされる『太一』と同じと

考えられており、伊勢神宮荒祭宮に祀られている天照大御神の荒御魂も

太一信仰と関係が深いそうです。

 

相馬氏の氏神である妙見宮の別当であった相馬妙見歓喜寺の妙見菩薩御前立像。

 

相馬地方では北極星や北斗七星の化身とされる妙見菩薩への信仰が強く、

北極星の化身である太一への信仰と伊勢神宮荒祭宮への信仰が習合した結果、

相馬地方で撞賢木厳之御魂天疎向津比売命を祀る神社が多くなり、

中村街道を通して、太一信仰(撞賢木厳之御魂天疎向津比売命への信仰)が

伊達市付近にも伝わったのではないかということでした。

伊達市保原町の天照神明宮にも境内社として妙見神社があります。

 

第49代天皇である光仁天皇の御宇、陸奥国の地では、

蝦夷(東北地方の居住民)が勢力を増し、世情も平静ではありませんでした。

そのため、朝廷は天応元年(781年)1月に、陸奥出羽按察使として藤原小黒麿を

任命して下向させたが騒乱は全く収まりませんでした。

翌年の延暦元年(782年)6月に新たに即位した桓武天皇は、

陸奥出羽按察使・鎮守府将軍として大伴家持を新たに任命し再び下向させました。しかし、蝦夷の勢いは変わらずたくましく盛んでありました。

 

これに対抗しようと、大伴家持は高旗山の山頂に登り、潔斎して神々を祀り

祈願したところ、瀬織津比売命の神霊が顕現され、安積の山々や八旗山などに

奇瑞を現されました。

 

瀬織津比売命の神霊より助力を得た大伴家持は、雄々しく蝦夷平定の兵を

進軍させ、それまで服従することがなかった蝦夷の者たちを平定しました。

これによって、陸奥国や出羽国で起きていた騒乱を鎮め、ようやく民心の安穏を

得ることができたのでした。

 

蝦夷平定への神助に感謝した大伴家持は、高旗山の山頂に荘厳な神殿を建立し、

鎮守神として篤くお祀りしましたが、時が経つ間に神殿は荒廃したため、

その後、延暦3年(784年)に現在の鎮座地である山崎へと遷座し社殿を造営、

瀬織津比売命の相殿神として八幡大神(誉田別命)をお祀りしました。

 

平安時代に編纂された歴史書である『続日本後紀』によれば、

承和14年(847年)11月に宇奈己呂別神に従五位下の神階が授けられ

『日本三代実録』では貞観11年(869年)3月には正五位下に昇叙されたと

記載されています。

延長5年(927年)にまとめられた『延喜式神名帳』では、安積郡内の

延喜式内社として記載されている神社三社のうち、一番高い社格である

延喜式内名神大社として記載されています。

 

安積郡内で唯一の延喜式内名神大社ということもあり、

領主などの支配者から平民に至るまで、長い間篤く崇敬されました。

(宇奈己呂和氣神社の他の式内社として、隠津島神社と飯豊和気神社があります)

宇奈己呂和氣神社の他の安積郡内式内社。

福良隠津島神社(上段左)・喜久田隠津島神社(上段右)

木幡山隠津島神社(下段左)・飯豊和気神社遥拝殿(下段右)

 

鎌倉時代になり、武家による政治が始まると、

安積郡の地頭として工藤祐経の次男である工藤祐長が派遣され、

工藤祐長は安積祐長を名乗り安積伊東氏の祖となりました。

 

当時、新しい領主が地元の民衆の心をつかむには、その土地の鎮守神への信仰を

利用するのが政治の常道とされており、工藤祐経や工藤祐長は、自分たちが

信仰する伊豆国に鎮座する伊豆神社・箱根神社・三嶋神社の三社の御分霊を

安積郡に勧請する際、いきなり宇奈己呂和氣神社の相殿神として祀るのではなく、

まずは境内社として祀ることで、地元の人々の信仰心を安堵させ、安積の地に

伊豆国三社への崇敬心が根付くように図る政策を取りました。

 

このような信仰を利用する懐柔政策はその後も継続されました。

応永6年(1399年)に鎌倉公方であった足利満兼が陸奥国と出羽国を管轄するために

弟である足利満直と足利満貞を安積郡篠川と岩瀬郡稲村にそれぞれ派遣しました。

足利満直は篠川御所、満貞は稲村御所と呼ばれ、篠川御所満直は、由緒ある

宇奈己呂和氣神社の再興を志し、応永9年(1402年)に地元の人々から

篤く崇敬されている宇奈己呂和氣神社の社殿と境内を整備し、安積三十三郷の

神社の惣社(総社:郡内の神社の神々を一ヶ所にまとめて祀る神社)として

崇敬を集めるようになりました。

 

また、鎌倉より随行してきた家来の大原康信を神主として任命し、

宇奈己呂和氣神社の社務を統括させました。それから現在に至るまで、

大原家が社家として祭祀を行っています。

 

高旗山から現在地に社殿を遷座した時に、相殿神として八幡大神をお祀りした

ことから、宇奈己呂和氣神社は別名『相殿八幡』と呼ばれるようになり、

瀬織津比売命よりも武神である八幡大神への信仰が強まっていきました。

現在の鎮座地も、八幡宮が鎮座していた場所ということに因み、地名も

『三穂田町八幡』となっています。

 

宇奈己呂和氣神社の古記録は『相殿八幡文書』と呼ばれ、貴重な歴史資料と

されているそうです。

 

それによれば、永享11年(1439年)の相殿八幡宮祭礼の際の御幡料割付状や、

伊東高行・芦名盛高・芦名盛氏・蒲生氏郷による社領寄進状、

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦前に上杉景勝公が意を示された祈願文が

記録されており、元和6年(1620年)には神祇管領長である吉田権少副兼之が

下向し、はじめて領内に『社家中法度作法』を伝え、吉田家の指導のもとで

幣帛・祭事・卜占などの作法についての統制を受けたという記録もあるそうです。

 

その後も、再蒲生領時代(蒲生家が上杉景勝の後に会津藩主についた時代)や、

その後の加藤嘉明・丹羽光重といった領主の時代にも、宇奈己呂和氣神社は

篤く崇敬されていたことを相殿八幡文書は伝えているそうです。

 

宇奈己呂和氣神社の祭礼は、古くは春の4月2日から4日、秋は9月18日から

20日までの各3日間に行われていました。

祭礼では流鏑馬神事や神輿渡御が行われていたが、室町時代中期の

嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱や長禄4年(1461年)の大飢饉による

混乱を受けて廃絶したそうです。

 

その後、江戸時代に入ると、歴代の二本松藩主から宇奈己呂和氣神社は

篤く崇敬されるようになり、近隣の安積三十三郷惣社・総鎮守社として、

廃絶していた神輿渡御を復興しようとしたものの、現在も神輿渡御は

行われていないそうです。明治15年には郷社に列格しています。

 


福島県郡山市三穂田町に鎮座する宇奈己呂和気神社です。

神社は、東北自動車道の郡山南インターから西に3kmほど走った場所に

鎮座しています。神社の目の前には三穂田町公民館があります。

宇奈己呂和氣神社鳥居と参道入口。

 

鳥居をくぐると小川が流れており、神橋がかけられています。

 

宇奈己呂和氣神社参道。

参道左手には慰霊碑などの石碑、右側には社務所があります。

 

杉木立に囲まれた参道が社殿に向かい続いています。

 

手水舎の先の石段を昇ると、社殿に着きます。

 

入母屋造の宇奈己呂和氣神社拝殿。

 

宇奈己呂和氣神社拝殿の唐破風部分。

 

宇奈己呂和氣神社拝殿扁額。

 

瀬織津比売命と八幡大神の神霊を祀る三間社流造の宇奈己呂和氣神社御本殿。

御本殿西側は、西側から吹き付ける雪風から御本殿を守るために

雪除けの板がつけられています。

 


拝殿の内部には、扁額・奉納額・絵馬などが飾られています。

拝殿で昇殿参拝するには宮司さんの許可が必要です。
以下の写真は許可を頂き、撮影させていただいたものです。

宇奈己呂和氣神社拝殿内部。

 

宇奈己呂和氣神社拝殿内部の扁額。

【安積惣社 宇奈己呂和氣神社】や【八幡神社】の扁額が

飾られています。

 

宇奈己呂和氣神社拝殿内部から拝む、幣殿・御本殿御扉部分。

三間社流造の御本殿には御扉が3枚付いており、宮司さんのお話では、

昔は春日大神(天児屋根命)が残る一座にお祀りされていたという話も

あるそうです。

現在は瀬織津比売命と八幡大神の御神座がお祀りされていて、

もう一座は空座となっているとのことでした。

 

【幣帛料 金三圓 参議 伊藤博文】の奉納額。

初代総理大臣である伊藤博文がまだ参議だった頃、安積疎水工事の責任者として

開拓事業に取り組んでいたそうです。

そのため、安積地方の総鎮守社・惣社である宇奈己呂和氣神社へ幣帛料を

奉納したのではと思われます。

 

宇奈己呂和氣神社が相殿八幡宮・相殿八幡神社と呼ばれていた頃の扁額。

 

慶應2年(1866年)に奉納された、武将と睨み合う龍の大絵馬。

 

明治22年(1889年)に奉納された【加藤清正公の虎退治】の大絵馬。

 

大正11年(1922年)に奉納された【素戔男尊の八岐大蛇退治】の絵馬。

 

長寿祈願のために奉納されたと思われる亀の大絵馬。

 

明治44年(1911年)に奉納された、鶴の群れを見る人々が描かれた絵馬。

 

大正2年(1922年)に奉納された、武士の絵。

 


境内社として、由緒書によれば摂社として、養蚕神社(蚕養國神社)

忠魂社・山神社・青麻神社・稲荷神社・水天宮(水神社)が鎮座し、

末社としては、三島神社・伊豆山神社・箱根神社・北野神社・春日神社

稲荷神社・厳島神社(弁財天)があり、境外社として金刀比羅宮があると

されています。

 

宮司さんに伺ったところ、現在は以下の神社が境内社として確認されています。

参道左側の蚕養國神社。扁額も蚕の繭の形になっています。

蚕養國神社は会津若松市に鎮座する延喜式内社で、

御祭神は本社と同じく保食神・稚産霊神・天照大御神と思われます。

会津若松市の延喜式内社・蚕養國神社拝殿。

 

社殿左手の忠魂社。

 

境内北東・御本殿の後ろ右側の石宮、稲荷神社。

 

境内入り口左側、小川沿いの場所に鎮座する水天宮。

石祠には『水神社』と書かれています。

 

社殿から北西に少し離れた場所には石祠が2つ鎮座しています。

 

左側の柱付きの石祠は青麻神社。

宮城県仙台市宮城野区岩切に鎮座する神社で、

御祭神は天之御中主神・天照大御神・月読神の三柱です。

お参りすると、中風(脳出血から来る半身不随・手足の麻痺などの症状)から

守ってくださる神社として有名です。

 

青麻神社の右側の石祠は、鎌倉時代に安積地方を治めた安積祐長により

勧請された伊豆国三社のうちの一座・箱根神社。

御祭神として箱根大神(瓊瓊杵尊・木花咲耶姫命・彦火火出見尊)と思われます。

 

水天宮の西側の石祠。

 

これら上記の境内社の他にも、崩れた石祠などが境内にありますが、

どのような御祭神をお祀りしていたかは不明です。

 

忠魂社の裏手にある2つの石。

磐座だと思われますが、よく見ると裏側が木目のようになっており、

宮司さんによれば、大きな珪化木(樹木が化石となったもの)ということです。

 


宇奈己呂和氣神社の御朱印ですが、境内の社務所に宮司さんが

いらっしゃれば拝受することができます。

宮司さんの御自宅は神社のそばにありますが、もし分からない場合は

三穂田町公民館の方に伺えば教えていただけるかと思います。

また、宮司さんは外祭や兼務社の例祭などでいらっしゃらない場合が

ありますので、御朱印や御守などの授与品を希望される場合は

事前連絡して、都合のいい日に伺うことをおすすめ致します。

宇奈己呂和氣神社御朱印。

以前は神璽印を御朱印として授与していただけましたが、

2017年現在、【宇奈己呂和氣神社】の社名印を授与していただけます。

 

以前記事にした、大崎氏岩出山の荒雄川神社里宮と同じく、

祓戸大神の瀬織津比売命をお祀りする珍しい神社です。

瀬織津比売命を祭神としてお祀りする延喜式内社はあまりなく、ましてや

延喜式内名神大社となると、滋賀県大津市の佐久奈度神社しかありません。

(ただし、佐久奈度神社は祓戸四柱大神が主祭神なので、瀬織津比売命だけを

主祭神としてお祀りするのは宇奈己呂和氣神社のみです。)

 

参拝していて気持ちがよく、個人的には大好きな神社である

宇奈己呂和氣神社です。郡山市中心部からは離れていますが、

郡山市に寄った際には、是非とも参拝してみて下さい。

 


< 地図 >

 


< おまけ:宮城県に鎮座する瀬織津姫命を祀る神社 >

 

・瀬織津姫神社(気仙沼市唐桑町東舞根)

陸奥国に熊野本宮神の御分霊を勧請せよという勅命を受けて

紀州からの陸奥へとやってきた一団は、鮪立地区から上陸し、

現在の瀬織津姫神社が鎮座する場所に仮宮を建て、

供物を奉って瀬織津姫命からの託宣を受けたということです。

 

・青麻神社境内社・瀧之宮

青麻神社境内そばに『三光の滝』と書かれた看板があります。

木の橋を渡り、沢沿いに歩いていくと三光の滝のそばに瀧之宮の石祠が

鎮座しています。

 

・瀧澤神社(仙台市青葉区)

御祭神は瀬織津姫命で、和歌三神である住吉三神・柿本人麻呂公

衣通姫命(玉津島明神)を配祀しています。

もともと瀧澤神社は亀岡八幡宮が鎮座している場所にありましたが、

仙台城が築城される際に福島県伊達郡梁川亀岡に鎮座していた八幡宮を

仙台の地に勧請するために、瀧澤神社は現在の本町の場所に遷座されました。

戦後になり、都市計画に基づき現在の鎮座地に再遷座されたそうです。

 

・八幡神社(富谷市今泉八幡下)

穀田字丸森に鎮座する滝沢神社の祭神である瀬織津姫命を

明治41年に八幡神社へ合祀しています。