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旅立ち 10

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夜明け前、海上を濃密な霧が覆い始めた頃------------

トルトウーガの港に停泊するレッドサーペンス号に、忍びこもうとする影が一つあった。艶やかな女装から再びならず者風な本来の格好に着替えたクライズである。

彼は酔っ払いを装って船へと近づき、外に出ているのが見張り台の船員一人なのを確認すると、しばらく待ったのち、その交代の時間を狙って船内へと潜り込んだ。

上がり板を登って通路を曲がったすぐ右に、酒樽がいくつか山積みになってることは今日の夕暮れヴァインズと下調べに来て確認済みだ。そこに息を潜めて隠れて待つ。

ほどなくして、見張り台の男とはまた別の、見回り当番らしい船員が一人でランタンを片手に歩いてきた。クライズは、酒樽の影から物音ひとつ立てず立ち上がると、彼の背後に回って首筋に素早く手刀を繰り出し当て身を食らわせた。

気を失い前に倒れこむ船員の体を支え、怪我をさせないよう気をつけながら横たえると、酒樽の影に押し込み、手馴れた手つきで身につけた衣服を剥ぎ取っていく。


「お互い海賊と盗賊だ。悪く思うなよ。」

剥ぎ取った衣装に着替えた後、下一枚という情けない姿で気を失い横たわる男に向かってそう声をかけウィンク一つ投げると、クライズは床に転がったランタンを拾いあげて懐に持った火付け石で再び火を灯し、何食わぬ顔で通路の奥へとその姿を消していった。



  話を少し戻そう----------


レッドサーペンス号からの帰り道、船と港を背に、どんどん遠ざかってく馬車の中でクライズは一人、何故か不機嫌だった。

「なぁ、ルー?やっぱり、俺が実行したほうが…」「駄目です。」

言いかけた言葉を、間もおかずにぴしゃりと遮られ、その不機嫌そうな顔が更に険(けわ)しいものになる。


だが、クライズの言葉を遮ったヴァインズもまた、その顔は険しかった。

それもそのはず。この不可解な会話は、二人が馬車に乗り込んだ時からもう幾度も繰りかえされているのだ。

ヴァインズがようやく先に、今まで会話に出なかったことを口にした。

「あなたは下見と計画を立てる担当と最初から決めてあった筈。実行は別の者にやらせます。」


その言葉に、目だけを横に向け、切れ長の瞳で彼を流し見やりクライズが答える。

「俺に報酬を払ってそいつらにも払うのか?よせよせ。金がもったいねー。」

「私の金です。どう使おうと勝手です。」

とりつく島も無いとはこのことだ。更にぴしゃりと被せるように言われ、さすがのクライズも苦が笑いを浮かべずにはいられない。


ヴァインズが、ここまでクライズの意見に耳を貸さないのはじつに珍しいことだ。だが-----。

クライズのほうはクライズでまた、どうしても引けない思いというものがある。その素直な気持ちの一端を吐き出して疑問をぶつけてみることにした。「そんで、その実行犯達はそのあとどうなるんだ?」


それに対して、相手は驚く程の沈黙で応え、何も言い返してはこなかった。ただ、その口元に彼のほうには決して向けない酷く冷たい微笑が浮かんでいるのを見つけ、クライズは自身の心もまた暗い闇へ落ちていく思いがした。

(やっぱり…か。)


ときどきヴァインズが、自分の知ってるヴァインズじゃないんじゃないかと思ってしまう瞬間がある。まさにこんな時だ。幼い日に出会った、聡明で柔軟だった『ルー』の思考は、その持って生まれた才能でクライズの教え込む知識を驚異的な早さで吸収した。そして、闇社会に溶け込むのもまた驚異的なスピードで行われた。はっきりしたことは本人も周囲も教えてはくれないが、今のクライズでさえ想像もできないような非情なことを裏で繰り返してきたのだろうと思う。けれども、その非情さが自分や自分が紹介した者達に向けられることは決して無いというのも十分過ぎる程にわかっていた。だから、とくに口を挟んではこなかったのだ。だが、それで良いのかと問われれば決して良い筈はなく…。彼の心はいまのように暗く沈む。


「なんて顔してるんです。」

ようやくクライズの表情の変化に気づいたヴァインズが、彼のほうを向いてため息をついた。殺したりなんてしませんよ。囁いて、安心させるように彼のその頬を手袋をはめたままの手で撫でた。


「ただ、異国には身を隠してもらいます。もちろん相応の金は渡して、ね。4~5年は遊んで暮らせるでしょう。」


本当だろうか。その真意を読みとろうと、彼のほうに身を傾けその瞳を覗き込む。まるで…星ひとつ無い夜の闇のような、月の無い晩のような静かに見返してくる感情の見えぬ黒真珠の瞳に、クライズは自分が心ごと飲み込まれてしまうような錯覚を覚えた。


と。馬の嘶きがして…唐突に軽い衝撃と共に馬車が止まった。その揺れの反動で、クライズは不安定な格好でヴァインズの顔を覗き込んでいたのでそのまま彼の胸に飛び込む形となってしまった。


「大丈夫ですか?」

自分のほうに倒れこんできた、いまだ女の装いのままのクライズをその腕にしっかりと受け止め、ヴァインズは彼に向かって声をかけた後、続いて馬を操る御者台の男に向かって怒鳴った。


「いったい何をしている!」


主人に叱られ、心底震え上がった声で御者台から初老の男は答えた。

「申し訳ありません、ご主人様。けれども、」


どうにも通りの様子がおかしゅうございます。御者もまた困惑しているようで、その声に力は無い。

いいから進めろ、と言うヴァインズを制してクライズは馬車の中から小窓を開くと外の様子をうかがう。


外はすでに日も沈み、月影がうっすら射すのみの闇の中だったがクライズはとくに不便は感じない。彼は長年の

修練で夜の中も日中に近い視界で見渡すことができるのだから。


「…?」

まず、てっきりヴァインズの私邸に向かってると思っていたクライズは想像してたのと違う下町の風景に小首を傾げた。


「途中、リリアナの家に寄るよう指示を出しました。ご心配かと思いまして。」

クライズの様子に、その思いを汲み取ったヴァインズからすかさず言われ、無言でうなずく。礼の言葉こそ口には出さなかったが、そういった彼の聡(さと)い配慮はいつもありがたく感じている。


馬車の中で耳をすましていると、ほどなく道の先から銃声と喧騒(けんそう)のような声が聞こえてきた。馬を操る御者の、手綱を握る手を止めさせたのはその音だったのだろうか。


(待てよ…確かあっちのほうは…)


そう考えていると、ヴァインズの視線と目が合った。その目が暗(あん)に止(よ)せと伝えてくる。それで、自分の考えが確信に変わった。


次の瞬間、心で思うより先に体が馬車から飛び出していた。


「待ちなさい!」


背後でヴァインズの制止する声が聞こえたが、クライズに止まる気は無かった。せっかく一度助けたのだから、リリアナには生きていてほしいと願った。そう、ただならぬ喧騒の声が聞こえてきたのは彼女の家の方角からなのだ。


「まったく。ご自分の今の格好、ちゃんと理解しての行動なんでしょうね。」

ヴァインズは走り去っていく青いドレス姿のその背に向かって、飽きれ顔で言葉を投げつける。その口からは同時に、憂いを含んだ深いため息が吐き出された。


>>11に続く


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